2017/10/24

51歳でどうするよ

25歳では天才たりうる、50歳では努力がいる

これは、僕が、人間の、いや男という生き物がどれだけアホな要素で作られているか(そのことをもっとも良く知っているのは男児を子に持つ世の母親達であろう)を、強烈に感じさせてくれる作家であり詩人、C・ブコウスキー(CB)の「ジェームス・サーバーについて話した日」という短編小説の冒頭である。あの「素晴らしき新世界」を著したオルダス・ハックスリーのそれとは別の作品からの作中引用だ。

ストーリーの流れから、これを書いた時はおそらく彼(CB)は49歳だったと推察される。だからこれは来るべき50歳について「一体どうすっぺかな」とビールかポートワインを片手に、小さな部屋の薄汚いベッドの上で考えあぐねていたのだろうと思われる。

一方、すでに現在51歳の僕がこの小説をはじめて手にしたのはもう何年も前。その時の自分はおそらく何も感じてなかったようだ。というのもこのストーリー自体が忘却の彼方であったからだ。

結局多くの凡人は、その時々の当事者であることでしか理解できない(しようとしない)ことがほとんどなのだ。

つまり、世に出る非凡人とは、現在過去未来を常に当事者の感性で縦横無尽に行ったり来たりできる人間ということになる。

そして、今という時代は僕みたいなおっさんが、おっさんであればあるほど、謙虚に学びを深め努力していくことでしか、非人間的な資本主義、無自覚に拡大するばかりのグローバリズムを生き抜いてはいけないんだろうな。

そんな世界で世に出たければ、の話だが。

この年齢になってふとこの短編集を読み返したことに、何か意味があるのかもしれないしないのかもしれないが、何かに引っかけられたのは間違いない。

それにしてもCBって魅力的なおっさんだ。

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