2014/12/24

遠距離

離れているからこそ考える事があります。

妻の事とか、娘のこととかつまり家族の事。

出張で海外にいる事が多いからか、家族と一緒にいることが当たり前になっている時には気付きもしないことに思いを馳せたりします。

なので、帰国時はいつも何だか新鮮というか、家族と過ごすことができる時間が本当に貴重に、そして大切に感じられます。

今日はクリスマスイブイブです。

余計にそんなことを考えてしまったのかもしれませんね。

Merry Christmas!



2014/12/01

シンガポールチームの合宿を終えて

こちらシンガポールは雨期に突入しています。雨期と言っても一日中雨が降り続いているわけではありませんのでむしろ過ごしやすいです。

そんな雨上がりの街中では、フランジバニーやヘリコニアといった色取り取りの花々が活力を増しているのを感じることができます。コンクリートジャングルと呼ばれる都市にも自然がしっかり息づいているんですね。

ところで、先週の水曜日から金曜日までの3日間、シンガポールチームでは日本からもう1名の役員と部長を交えて来季の方針作りの為に合宿をしました。

来季からの新しい体制移行に際し、メンバー間で議論を深め、各々がある程度は腹落ちすることのできた3日間だったと思っております。因みに日中は勿論、連夜に繰り広げられた"若干の"アルコールを交えながらの議論もかなりアグレッシブでした。

積極的に関わってくれた皆には感謝しかありません。

ところで、年間方針がそのまま計画通りに行く事は稀です。特に私達は市場を創りにいっているのですから尚更です。

とはいえ、未開のジャングルで山勘だけに頼っているだけでは野垂れ死んでしまいます。せめて来た道をしっかり振り返えられる状態にしておくことが大切です。そうすれば、前進するうちに徐々に正しい道筋が見えてくるはずです。少なくともその確率は高まります。

方針という名の仮説の元に、一歩一歩進んでゆきつつ地点地点で方向に修正を加えながら一緒に道を作る。そんな感覚も皆とは共有出来たかなと思います。

そんな中で、私としては壮大なジャングルの中で暗中模索しながらも、皆の活動をより緻密に俯瞰する「羅針盤」のような役割も意識していかなければと、気を引き締めているところです。





2014/11/22

「ブラック・スワン」から「都市と都市(チャイナ・ミエベル)」へ

たまには書評というか最近読んだ本の忘備録。

ここ最近はノンフィクション系を読んで来ていたせいか、新しい知識を取り入れるには脳の容量が枯渇している危機的状況でした。だれか容量増やすやり方を教えて下さい。まずは掃除が必要かな。

因に、「まぐれ」以降「ブラックスワン」「ファスト&スロー」「実践行動経済学」と、人の意思決定に関連する本を読んでいました。この分野(認知心理学/行動経済学)はとても興味深く、ビジュアル作りもこういった視点を活かせたら色々な意味で幅が広がるのではないかと思いました。これからも深めていきたい分野です。

あと、この間、一応ビジネスマンらしくせねばと「ゼロ・トゥー・ワン」も読みましたです。はい。彼はリバタリアンであり且つ哲学的な思想を持つビジネスマンで私とは相容れないタイプですが、サーフィンもやっているようで、まぁ共通点もあるじゃないかと勝手に親近感を感じています。勝手に。

この辺りはまた機会があれば書評を書きたいですが、そんなこと言っているうちはきっと実現できないのは自分が良く分かっております・・・

それから、まさに昨晩(マレーシアのホテルにて)読み終えたのですが、久しぶりに小説(SF)に手を出しました。チャイナ・ミエベルの「都市と都市」です。これ、色々な意味で面白かったです。



裏表紙の解説を引用すると、
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ふたつの都市国家<ベジェル>と<ウル・コーマ>は、欧州において地理的にほぼ同じ位置を占めるモザイク状に組合わさった特殊な領土を有していた。
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といった都市のコンセプトがこの物語のSF的世界観を構築しています。さらに二国間に跨がる不可解な殺人事件を主人公の警部補が追う、というミステリーの要素が絡まって展開していきます。

途中(半部くらいかな)までは、そんな都市の在り方を理解するのに手間取っていましたが、徐々に二国間に存在する歴史や暗黙のルールが霧が晴れるようにクリアになってくると、途端にストーリーに引き込まれて行きます。

海辺の断崖絶壁こそ登場しませんが、その警部補がサスペンス劇場的にラストに向かって一気呵成に謎を解いてしまうあたり、若干ミステリーとしては物足りなさを感じますが、「国とは何か」「国境とは何か」「人種とは何か」といった観点に落差のある変化球を投げこまれた感じで相当戸惑いますね。その戸惑いを面白いと感じられるかが分かれ目です。その異なる感覚こそがこの小説の醍醐味と言えるでしょう。

東南アジアの都市では「人種的モザイク状態」を当たり前のように目の当たりにします。人種間に暗黙のルールがあり「見えていても見ないようにする」といったこの本にも出てくる状況が実際に存在しているのは興味深いです。

そういう意味では、ある種の都市論としても捉える事ができ、読み応えのあるストーリーでした。

おすすめです。


2014/11/11

アイデアの循環

前回のエントリーで「アイデアはシェアされると拡散する」という言葉を引用しました。

これは、ストックフォトコンテンツ制作のコミュニティにおいても相当活発な現象だと感じています。

とはいえ、素敵なアイデアがシェアされれば、瞬く間に模倣されてしまうのもまた現実です。この場合、シェア=模倣という構図を連想してしまい、何と無くネガティブな印象が拭えません。アイデアを人に取られてしまう!パクられてしまう!と。

しかし、個人的にはこういった状態はそんなに悪い事だとは考えていません。なぜなら、元のアイデアは、拡散されているうちに多くの人々によって様々な視点が取り入れられ、その姿をどんどん変えて進化してゆくものだと考えているからです。


アイデアがシェアされ拡散される世界はアイデアの生態系のようなものだと思います。自らが投げかけたアイデアが様々なところで拡散されて、いずれは自分にも何らかの形でフィードバックされてくるといった世界観です。
著名な(でなくてもいいけど)作家やアーティスト達も、何かに、誰かに少なからず影響を受けているはずなのですから。

そう。アイデアは循環するのです。


そして、アイデアの生態系にも勿論多様性が必要です。だからこそ、異質な分野から得たインスピレーションを自分なりのアイデアに変換し、発信し続ける事はとても大切なことなのです。


そんな姿勢が、最終的には自分のクリエイティビティを高めることにつながると考えています。

2014/10/18

啓蒙よりもコミュニティ

現在の私の仕事では、ストックフォトをアジアに広めるという活動がかなりのウェイトを占めています。

この活動を象徴する表現として、これまで折に触れて啓蒙という言葉を使ってきました。

しかし最近は「アイデアはシェアされると拡散する」と"MAKERS〜21世紀の産業革命が始まる"という本の著者であるクリス・アンダーソンが使った言葉が、改めてグイグイと脳髄に染み入ってくるのを止められません。

最初にこの言葉に触れたとき、実は頭の片隅では良いアイデアは自分でさっさと実現すればそれで良いのではないか、と懐疑的に捉えていた部分もありました。しかし、その考えはどうやら改める必要があるかもしれないと最近感じています。

ある事柄の浸透を図るような仕事を異国の地で取り組んでいると、何かを拡散させるにはコアなコミュニティへのアクセスがきっかけとなることが多いということを経験的に実感しています。

そういう意味では、私達が行なっているのは「啓蒙」という少し上からの立ち位置ではなく、「ストックフォトクリエイターのコミュニティ作りをサポートしいる」との表現の方が実際はより正確だと思われます。

例えばストックフォトにおける人物撮影は、個人で取り組むには少々ハードルが高いので、クリエイターにとっては、クリエイティブ自体のアイデア交換はもちろん、撮影方法や組み立て方などにおいても共に試行錯誤出来る仲間がいるというのは、とても心強いものなのです。なのでもっと端的に言えば「仲間作り支援」と言えるかもしれませんね。

もし私が再びストックフォトクリエイターとして独立するとしたら、そういった世界中のコミュニティに参加することから始めるでしょうし、実際に自分でもコアなコミュニティを率先して立ち上げていくと思います。

繰り返し言いますが、

アイデアはシェアされると拡散する

そして猛スピードで拡散されるアイデアは、様々な形に進化していくことになるでしょう。

そこのところの情報や感性を掴んでおくのは、進化系クリエイターの創作活動にとっては極めて重要だと思うのです。

2014/10/13

説明するという苦行

今朝、朝食後にコーヒーを飲みながら妻とつらつら四方山話をしていた。

そしたら、珍しく私が読んでいる本に興味を示してきたので、内容や感想を妻に説明した。身振り手振り一所懸命話した。

反応はというと、

「うーん??なんか小難しくてつまらなそうだね」

イラっとしつつも、私も話していてそんな雰囲気を何と無く感じていたんだな。私が話せば話すほど、力を込めれば込めるほど、彼女の目が死んだ魚の様に生気を失っていくのが明らかだったからだ。

まぁ、説明のポイントがあちこちに散らかってしまっていたし、つまり支離滅裂だったことは認めざるを得ない。

妻は私に対して何の遠慮もないからこその正直な感想だった訳だ。ダメだこりゃ。

妻のそんな正気のない眼差しで眺められつつ、読んだ本の内容を説明するというのはある意味苦行だ。しかし、理解度を上げる為の身近な訓練場だと思ってこれからも試してみる価値はありそうだ。

何より妻との会話が増えるしね!


2014/10/01

読書の方向性

ういやー、久しぶりの更新となってしまいました。

言い訳がましいのですが、実は日々何かしらは書き溜めてはいるのです。ところが、毎日何かを書いていると、どんどん内面を掘り下げていくかなり個人的な内容が増えてしまっています。

しかも堂々巡り的な、、、そんなの誰も読みませんよね。

加えて、気分的な内容も多く、数日で気が変わってしまったりすることもしばしばです。

ですので、そんな誰も読まないブログはやめて、個人的な話は日記帳に書き溜めることにしました。もうかれこれ3週間位になりますか。

まぁ、これは読書の方向性を変えたのが影響しているのは自分でもわかっています。

以前はビジネス書をよく読んでいたのですが、この2年位は読書を余暇の一環として捉え、ミステリー小説中心のスタイルに変えてきていました。

出張も多く機内やホテルの夜などはスコッチをやりながらミステリーを楽しんでいたものです。ミステリーを自分で書いてしまおうかと思ったことも度々です。

しかし、3カ月位前に立花隆さんのある本を読んだのがきっかけで、徐々にサイエンスノンフィクション系、或いは哲学系を触り始めることになりました。これが面白い。

世の中には、自分の知らない領域が沢山存在していている事を知るのはとても刺激的です。更に、それらの知識を活かすにあたり、どういった思考傾向を持つのかの重要性を特に強く感じています。

知識は新しい何かを生み出すためのガソリンだと思うのです。まさに温故知新。何かのコピーでは無く、自分オリジナルなものの為に。

それなのに、学べば学ぶほどに、余りにも無知であり頭の働かない自分を発見することになり、とにかく腹立たしい思いがしているんですよね。いや、本当に頭悪いです。

と、言っているそばから、徐々に個人的なものになってきました。これはまずい。(笑

というわけで、こちらのブログの方は不定期更新まっしぐらとなりそうです。




2014/08/30

「まぐれ」という本を読んだ備忘録

この本は新しい視点を提供してくれた。

とはいえ、僕の知識でカバーされている理解力では、一度読んだだけでは正しく理解出来る代物ではない。

何しろ不確実性科学の専門家にしてトレーダーである著者が、金融市場と日常が如何に「偶然」によって成り立っているのかを、経済学は元より、確率・統計論、哲学、進化論、心理学、生物学、遺伝子論、果ては神話などまでを深掘りし、それらの間を縦横無尽に行き来しながら、独自の考え方を示しているのだ。

僕は、これらの学問のどれ一つを取ってもきちんと取り組んだことのないのであるから、なにをや言わんである。

ただ、苦しみながらも読み終えた上で感じ取れた事は幾つかあった。

最も強く残っているものとしては、この世の中では、皆が、或いは信用のおけそうな人物が良いとしていることで半ば常識とされている事でも、そのまま鵜呑みにしていてはならないと改めて再確認したこと。

人間は経験からしか物事を判断出来ないという前提に立った考え方だ。いわゆる懐疑主義、実証主義の観点だ。特にインターネット上での情報の洪水には気を付ける必要がある。無自覚なインプットは方向性を間違う可能性もある。

またもう一点は、この本の核心部分でもある「偶然性」である。人生は何と偶然性(ランダム)に影響されているのかとの気付きは非常に大きい。

そして、人生とはこの偶然性に対し確率論的に処して行くことを突き詰めることなんだという捉え方である。僕の中に始めて入り込んできた感覚だ。

全ての結果がランダムに訪れるのだとすれば、巷で騒がれている成功や失敗もある意味では偶然の結果だと言える。だとすると、どうすれば成功出来るかだけでなく、どうなれば失敗するかをちゃんと理解して物事を進められているかどうかがとても重要になってくるのだ。(失敗の定義に当てはまったらどうするのかも含めて=事業でいえば撤退戦略)

世の中、成功要因ばかりに目が行きがちだ。

この辺りはもう少し掘り下げたい。最低もう一回は読み返さないとこのモヤモヤは具体的にならない。

あと、少なくとも確率論の理解と、ヒュームやポパーらの懐疑主義者の哲学には触れる必要がありそうだ。

本書には、参考文献も豊富に参照されているので、暫くは読む本に困らなそうだが、どれも高いものが多い。本物だということなのだろう。

お小遣いの配分を考えなくちゃ。







2014/08/29

Music

本が好きだ。

しかし、いいおじさんになってから本ばかり読んでいてはダメになる。ただでさえ腰が重くなっているのに、行動が伴わない頭でっかちな人間になってしまうからだ。

それを回避する僕流の手立てがある。それは、読書の合間にMusicを挟むのだ。

それも自分で編集したiTuneセレクトを、スコッチ片手にホロ酔い加減でイヤホンをして聴く。

何がいいかというと、印象深い数々の曲、僕の場合例えばColdPlayとかに浸ったりきった後は、不思議とつまらない知識がきれいさっぱり消えているのだ。

そんなので消えてしまうものは知識とは言えない。微かにでも残ったものだけを蓄積していく事が、容量の小さい僕の脳には一番効率的だということなのだろう。

因みに今はベタではあるけど、マイケルジャクソンでつまらない脳内知識を淘汰中。

2014/08/23

席替え

会社で席替えがあった。

いつも座っていた席から見えるものの位置が変わるだけで、こんなにもリフレッシュした感覚になるかというくらい個人的にはすごくいい感じだった。

諸々と思考が煮詰まり、パフォーマンスが落ちてると感じていた矢先だから、そういう意味では、個人的には凄く良いタイミングだったかもしれない。

だから、席替えに限らず、オフィス環境を考える時には、メンバーにリフレッシュしてもらえるような効果も意識して実行するのが良いかもなと思った。

例えば、壁にはメンバー達の写真作品を飾り、定期的に更新してゆくといった、そんな何らかの動きを持たせるような形だ。

クリエイティブな仕事をされているオフィスはそんなアイデアに満ちていると聞いたこともある。

今いるオフィスは少々味気ない。ちょっと提案してみようかな。






2014/08/18

波乗り(サーフィン)

というわけで、昨日早速波乗りに行って来た。

幾つかの課題も試せたし、お盆明けで人も少なく、何よりリラックスしてやれたのがとても良かった。

アフターサーフは、家族と共にビーチで夕方まで思いっきり遊べる夏は最高!

横に流れる川で、娘にも初めてサーフボードを使って遊ばせてみた。ちょっと楽しそうだった。

昨年からシンガポールと日本を行き来する生活となっていて、ほとんど波乗りの時間を取れていなかった。

とはいえ、帰国時の金曜日に飲み過ぎて翌朝起きれなかったりもあったりしたので、つまり、まぁ行こうと思えば行けたわけで、自業自得。

しかし、改めて感じたことは、波乗り僕にとってはなくてはならない時間だということだ。

海と空と風から得られる自然の恵みを体内に取り入れて、自身の内から盛り上がるパワーとなる。そんな感覚を僕は波乗りにに持っている。

これからも細く長く続けて行きたい。

2014/08/16

夏休みを迎えて

久し振りのブログとなってしまった。

大体原因はわかっている。

日本に帰ってくると瑣末な事柄に忙殺され気味だ。体調もいまひとつ。つまり、諸々主体的に取り組めていないという証拠でもある。

僕は人にやらされていると感じられる状態が続くと、様々な面でパフォーマンスが落ちる傾向にある。

もっと自分の思想を軸にした日々の行動を意識したい。

というわけで今日から夏休み。

持病の面での精密検査があるので、フルに休みという感覚はないが家族でキャンプに行くのをとても楽しみにしている。

また、可能な限り読書をし、自然からのパワーを頂きにサーフィンには絶対行く。

そんな過ごし方を通して、あらゆることを振り返り、優先順位を見直し、何より自分の軸を見つめ直す。

そんな夏休みにしたい。



2014/08/09

ピアノ


我が家に電子ピアノがやってきてかれこれ2ヶ月。

娘はせっせと教室に通い、腕をメキメキあげている。その上達ぶりには目覚ましいものがある。子供って凄いな。

で、家にピアノがあればついつい触ってしまうのものだから、僕もちょこちょこと弾いてみている。

これがなかなか面白い。ピアノなんて何十年も触ったことがないので出来映えは本当に酷いものなのだか、集中しすぎて時間を忘れて占領してしまうことも暫しば。

というか自分の指の動かなさぶりがなかなか滑稽ではある。

電子ピアノは、見本となるサンプル演奏もプログラムされていて、弾いている曲の全体像を把握しながらレッスンできるのでとても便利。

だから、ちょっと引っかかると聞き直すことになるのだが、これまでは何となく聞いていた曲が、まぁそのレベルの高さに改めて愕然とすることになるのだ。

ともかく、ピアノがあのようにすらすら弾けると言うのはこれは本当に凄いことだと思う。楽譜を見つつも両手を自由自在に操らないといけないなんて僕には無理だ・・・

ピアニストって神だよ。そう、正に神業!

これからは、例えば披露宴などでピアノを弾いている人を見て、なんとはなしに微笑ましく感じているなんてことは出来ないだろうな。

何事も自分で試して見てはじめてその神ぶりというのを理解出来るのだね。


2014/08/03

シッターに懐く子供

2日前になるけど、マレーシア人カメラマンの撮影に同行してきた。

テーマは「ファミリー」。

モデルになってくれた方々は、カメラマンのお友達家族だったから、まさにリアルなファミリー撮影だった。9ヶ月の女の子と5歳の男の子もモデルになってくれた。

ご多分に洩れず、この年代の子供達の撮影は難しい。こちらの求める事など理解する意思がないから、ちょっと気を許すと糸の切れた凧の様にコントロール不能となる。

とはいえ、メンバー達の子供の扱いが絶妙であったので、全体としてはとても良い撮影だったと思っている。

ところで、こちらではよくあるケースなのだが、その家族はベビーシッターを雇っている。

なので、仕事だから当たり前なのだろうけど、子供達が撮影から外れるとそのシッターが始終面倒を見ている。下の女の子なんてもう付かず離れず状態だ。

だから、撮影が再開しても離れるのが嫌で泣き出してしまったりする。そこを無理やり引き離したりするのだけど、あれはちょっぴりかわいそうだったな。

泣いてるところもすかさず「シャッターチャンス!」とシャッター切りまくったりして大人って残酷だ。

母親と一緒にいるよりも、シッターに抱かれているのが好きみたいだった。うまく離れてくれても撮影中はずっとシッターの方を目で追っている程だから、僕のこの小さな胸もちくりと痛んでしまったのだ。

考えてみれば、いつも子守をしてもらっているシッターの方が抱かれ心地が良いだろうし、何より一番安心、信頼できる存在と感じてもなんら不思議はない。

そんな彼女を見ていたら、成長するにつれて母親にどんな感情を持つようになるのだろうかなんてふと考えてしまった。

他の大人を慕いつつも、母親という存在を次第に認識してくるわけで、そうなるときっと母親とは甘える存在ではないというような感覚が芽生えてきてもおかしくはない。

ある種の対等の関係になろうとするというか。

つまり、幼児期にシッターに育てられた子供は、親離れが早くなると言えるのかな。是非シッターに育てられた人の意見を聞いてみたいものだ。



それから、アジアのストックフォトマーケットでは、ベビーシッターイメージがあっていいかも!と撮影が終わって帰路についたタクシーのなかで気付いたという、残念なディレクターであったことも報告しておきます。













2014/08/02

NewsPicks

UZABASEという会社が展開しているNewsPicksというニュースサイトにプチはまりしている。

経済系にフォーカスした様々な記事から、自分の興味のある分野の記事をまとめて配信してくれるニュースアプリだ。キュレーションメディアなどとも呼ばれているらしいが。

何より気に入っているのはコメント欄。

一つの記事に多くの個人がコメントを寄せるのだが、本当に色々な考え方の人がいるんだと再確認出来るとともに、自分自身の視野を拡げられるという点で役立っている。

だから、少しでも誰かに同じような体験を共有出来ないかと、僕自身も自分の率直な意見を積極的に述べたくなる。

気に入られた時に付くLIKEも心持ち嬉しく、ちょっとした知的遊びみたいなところがあって良いサービスだなと思う。

それに、インプット、アウトプットの日々の訓練にはもってこいだ。

ただし、一方ではSNSやこのようなニュースアプリを通して日々アウトプットしまくっていると、段々とブログに手が伸びなくなってしまうという個人的ジレンマも抱えている。

まぁ、そこはブログの位置付けをどうするかや、インプットの量を増やしたり方向性を変えたりで対応出来ると思うのだけど、まだそこまで考えられていないのが現状。

今のところ、ともかく精進あるのみかな。

ところで、UZABASEの社長ってなんかいい。↓↓
起業、子育て、サーフィン。人生全ての幸せを追求する。UZABASE梅田優祐氏、自由な生き方への挑戦。

2014/07/31

記録更新

このブログを始めて4年になるけど、今月は月間の更新数とページビュー数の過去最高を記録した。

ブログ歴は、引越しがうまく行かずに辞めてしまった以前のアメブロを含めるとおそらく10年位になると思うが、その中でも月間の更新数としては最高なのではないかと思う。

この数値のレベル自体は大したことないのだけど、新記録という結果自体には自分で自分を褒めてやろうと思う。

いわゆる先日も書いた自分へのフィードバックというやつだ。

自分で言うのも何だけど、10年もダラダラやってきて、普通ならフェイドアウトしてしまうところを、何とか持ちこたえての再成長って中々出来ないよね。

更に、このブログで何かを達成したら、自分に何かを買ってあげるというインセンティブをつける仕組みにしようかと考えていて、その達成レベルの設定と、その時点での具体的な購入対象も既に妄想し始めている。

欲しいものは色々あるのだが、まずは直近で手に入れたいサーフボードをどのレベルに配置するかで、この先の結果が大きく変わってきそう。

うーん、やはりフィードバックにはそれなりの設計が必要そうだ。まずは自分を実験台にしてあれこれ試してみよう。

それにしても、何だかブログを書くのが凄く楽しみになってきたということは、導入としてはまずますなのではないかな。






2014/07/28

高校野球

全国各地で全国高校野球選手権の県予選が真っ盛りだ。既に甲子園への切符を手に入れている学校もある。

ところで僕は東海大相模という、野球では一応名門といわれている学校の野球部員であった。少しの期間レギュラー組のユニフォームを着たこともあったが、2年半のほとんどを補欠組で過ごした。

だから、というわけでは無いが、レギュラー組と僕の高校野球時代の思い出はあまり一致することが少ないのだ。何故かというと僕には対外試合でどうだったか、という記憶が殆どないからだ。野球をやっていたとすれば、やはり"あの一打"であったり、"あの一球"であるべきだよね。

最近は、Facebookのおかげで当時の同期と再会する機会が増え、酒を飲みながら色んな話をすることもある。しかし、悲しいことに会話がかすらないこともしばしば。盛り上がるのはグラウンド以外の出来事だったりする。

今にして思えば、ブランドに惹かれずレギュラーになれる高校を冷静に選択した方が良かったのかなとも思わなくも無いが、結局は自分がその程度だったことを考えれば、高いレベルの中で野球をやれたという経験の方が価値があったと思っている。

小学生から野球を始め、将来はプロ野球選手になりたい!とぬかす典型的ななんちゃって野球少年だった自分に、レベルの違いをはっきり見せつけてくれたのは彼らだった。

甲子園こそ行けなかったが、同期でプロを2名とノンプロを3名出したハイレベルなチームで切磋琢磨してきたことは、その当時の悔しさを含んだ不完全燃焼感が、後の自分の人生にとってはむしろエネルギーの源になっているのを今改めて感じている。

そんな元プロの同期が、今度は高校野球の監督として甲子園まであと一歩というところまで来ている。彼は一度プロにもなり、そして今度は監督として甲子園を目指している。

彼にとっては、2回目の大きな挑戦だ。

その姿には、素直に"超"がつく位に感動しているし、パワーを超貰っている。

俺もやるぞ!






2014/07/26

フィードバックの考え方

僕はゲームをやらないのだけど、世の中では、ゲーム会社の羽振りが相当良さそうにみえる。

人は何故ゲームに嵌るのか。

最近読んだ本で知ったゲームデザイナーのジェーン・マゴニカルによれば、それは、数多くの「フィードバック」の存在が鍵なのだそうだ。

何かがうまく行けば、「力+1」とか、「知識+2」とかそういうやつだ。或いはマイナスだってある。

それらの積み重ねに楽しみを感じ、更に難しい難題も解決し先に進んでいくんだというモチベーションの源泉になっているようだ。

今はゲームをやらないといっても、学生時代は少なからずやっていたので、そんな感覚はある程度理解できる。

とはいえ、現実の世界、特に組織に於いてはそういった継続的かつ魅力的なフィードバックを貰えることは極めて少ないかも知れない。自分を振り返ってみても、最近誰かに何かポジティブなフィードバックを貰えただろうか?うーん、記憶にない。

ということは、ある取り組みに対して、適時&適切にフィードバックが得られる環境を提供することが出来れば、参加メンバー達の課題解決に向けたモチベーション向上へとつなげられる可能性もあるわけだ。

まぁちょっと調べてみれば、この考え方はゲーミフィケーションというジャンルの中でカバーされているし、組織運営への活用も盛んなようだ。実際は、それらしき事をどの会社も取り組んでいる(はず)。

しかし、ともすると精神論に傾きがちなモチベーション向上に関しては、ゲーム的な視点から捉えるという発想は個人的にはあまり持てていなかったのが正直なところ。

そういう意味では、業務で日常的に行っているフィードバック自体の考え方を見直してみる良い機会なのかもしれない。

少し学んでみるべきかな。

それから、同時に自分へのフィードバックの仕組みについても考えてみたいところ。何をするのでも自分自身のモチベーションが不足していてはどうにもならないからね。

自分にとっての「力+1」とは何だろう?



2014/07/25

友人に刺激を受ける

マレーシアに来ている。

昨日の記事は、内容がまとまっていない構成前の下書きをアップしてしまったものなので、一旦削除した。ちゃんと見直さないとね。

ところで、昨晩、高校・大学時代の友人がマレーシアに来るという情報をFacebook経由で掴み、即座に連絡を取り合い、こちらでの再会が実現した。

中華を囲みビールを二三杯飲んで互いの近況を語り合った。

彼は、ある工業部品企業のアジア地域における営業マネージャーをしている。バンコク、上海、クアラルンプールなどをまわってクライアントや代理店との関係強化に務めている。

各地域での立ち上げの苦労話や、これからの開拓の意気込みなどを聞かせてもらった。

そして、ささやかながら僕の体験も語らせてもらうなど、互いにかなり刺激的な夜であった。

業種の違う人のアジア開拓の話は、異なる視点を提供してくれるので、新鮮な感覚で興味深く聞ける。色んな質問を繰り出したが、それらの回答もかなり参考になった。

そして何より、お互いに頑張ろうぜ、という思いを強く出来たのが良かった。

テクニック、知識、人脈なども勿論必要なのだが、"ゼロイチ"フェイズの海外展開は、ハートの面が最も重要。

こういった機会は持とうと思ってもなかなか持てるものではない。

いやー、こんな経験が出来るなんてFacebookってやはり凄いよね。

2014/07/21

自然に親しむ




海の日に連なるこの三連休は、高尾の墓参りに始まり、海に山にと、家族と共に自然にたっぷり親しむことができた。

ところで最近、適時自然と触れ合う機会を持たないと、何だか気持ち悪いというか、体の中によろしくない物が溜まってしまうような感覚が強くなってきている。

自然に触れることで、自分と外界とのバランスが保たれているような自覚があるのだ。

好きなサーフィンはド下手だし、生粋のアウトドア派でもないのだが、ただただ、自然の中で何かをしていることで満足を得られる、今はそんな感じだ。

極論、オフィスも自然と融合した場所がいいかもと個人的にふと考えたりしてしまうが、嫌な仕事はしない方向に行ってしまいそうで、それはそれでちょっぴり不安にもなる。

うーん、こんな事考えてるのは、ちょっと疲れてるのかもしれないな。

これまでの経験からも、こんな感じの時は自分の感覚に逆らわず、極力正直になった方が良いのはわかっている。

幸い、自宅は自然に囲まれた立地。その気になれば幾らでも自然と親しめるのだ。

この地に住んでいて本当によかったなぁ。



2014/07/19

自分ごと化のレベルアップ

何でもそうだけど、物事を"自分ごと"として捉えることが大切だと思う。

例えば、組織においては、社員の能力向上やモチベーションアップの為に、権限移譲を積極的に進めていく必要があるが、その結果の可否は、任された側の"自分ごと化"に焦点が当てられがちだ。

しかし、実は任せる側の"自分ごと化レベル"も同時に上げていくことがとても重要なのだ。

何故なら、権限は移譲して終わりではなく、任せた者も最終責任をしっかり取るという意識を持っていなくては本当の意味での権限移譲は成り立たないからだ。

だから、任せた後でも"自分ごと"として推移を見守っていく必要がある。

いわゆる、松下幸之助が言った「任せて任さず」だ。

実はこの2週間ほど、自分で実行してきた一連の移譲を振りかえってみて、自身の"自分ごと化レベル"のあまりの低さに気付かされ、猛省している真っ最中なのだ。

部下に対して、ある業務を任せたという判断を撤回し、更に改善に動くというのは、結局以前よりも増して多くのリソースを使うことになる。その影響は、他の業務の進捗にも及んでいることを考えると、結局は自分だけの問題には留まらない。

権限移譲と丸投げは全く別次元の話であることを今回は強く認識する機会となっている。

部下に"物事の自分ごと化"を説く前に、経営層に身を置く者こそ、日々、"自分ごと化"のレベルアップを怠らないことを忘れずにいたい。


2014/07/16

視力の低下

僕は、物心ついてからのこの40数年間というもの、2.0という視力の良さだけが自慢だった。

なのに、なのに、、、

この数ヶ月で急速な視力低下に見舞われている。遠くが見えなくなってきたのだから、いわゆる近視ってやつなのかな?

これまで見えていたものが、ぼんやりとした輪郭だけしか見えなくなり、よく見ようとしたら目を細めなければならない。これまであまり意識していなかったことだが、慣れないととでも不便だ。

表向きは、いつも通りに平静を装っているが、この喪失感はじわじわときている。妻などは、「へーそうなんだ。単純にメガネ屋に行けばいいのでは?」とにべもない。というか、その通りなのかもしれないけど。

しかし、足掻いてみたとしても視力が元通りになるものでもないのだから、現実として受け止めなければならないのだろう。

とすればどうするか?オシャレ眼鏡を楽しむか?それともコンタクトレンズをチャレンジしてみる?

そんな風に思考を変えてみると、入ってくる情報にも変化が現れる。


度数の自動調整に始まり、その先は涙の成分を分析して医療分野での活用も視野に入っているようだ。ちょっとしたSFではもう人間は驚かない世界に入りつつある。

記事を読みながら、未来のコンタクトレンズで出来たらいいなと思ったものを挙げておこう。

・見たものの画像記憶と転送
・アイコンタクトだけで会話が出来る
・暗闇でも見え、炎天下ではサングラスにと自動的に調整できる
・更に海ではゴーグル的にも使える
・・・

視力低下について考えてたら、何だか逆に新しい視界が開けてきた。


2014/07/14

プラネタリウム



昨日は、横浜の子供宇宙科学館に行ってきた。

娘が一日遊べる程度の、小粒だが学びが得られる様々なアトラクションが揃っていて、家族皆で結構楽しめた。

中でもプラネタリウム。

僕らが見たプログラムは、「地球外生物」をテーマにした少し大人めな内容だったので、6歳の娘には難しかったかも知れないが、それでも夢中になって見ていたようだ。

僕自身にとっても幾つかの学びがあってちょっぴり刺激的だった。

例えば、地球のように生命の存在と維持に適した条件を有する環境を「ゴルディロックスゾーン」というのだそうが、これと同様な環境を持つ太陽系以外の惑星を、世界中の科学者たちが血眼になって探しているという。

宇宙には本当に無数の恒星が存在し、同時にその周辺を多くの惑星が廻転している。そんな中では、逆に地球以外にゴルディロックスゾーンが存在していないと言う方が難しいかも知れない。

プログラムの最後にも出てきたが、近い未来、宇宙の生物達と何らかしらのネットワークで繋がる時代が来るのかも知れないとの考えは、決して妄想ではないかもと思えた。

ウェルズの宇宙戦争で描かれたような世界ではなく、そんな未来を生きてこの目で確かめることが出来たらどんなに素晴らしいだろ。

たまには現実の問題から離れて、果てしない宇宙との関わりに思いを馳せるのも悪くない。


2014/07/13

有名キャラクターについて(ベネッセの個人情報流出に関連して)

ベネッセの個人情報流出事件が巷を賑わせている。

事の本質は至る所で様々な議論されているから、今更僕があえて何かを語れることはあまりない。

それにしても、よくも2,000万件ものデータを集めものだなと思う。あらゆる手法が取られたのだろう。

数年前、子供を連れて同社を代表する有名キャラクター系イベントに行った時に、グッズと引き換えという事で、アンケートと共に個人情報を書かかされた記憶がある。

我が家ですらそうなのだから、同社のキャラクター絡みで個人情報を提供されたご家庭がかなりの数に登るだろうことは容易に想像できる。

因みにそのキャラクターはかなりの長寿だから、同様の施策は長年に渡り展開されてきたと考えても差し支えないだろう。

キャラクターってそんなところにも力を発揮するんだなと考えると、その価値は関連売り上げだけでは測れるものではないということになる。

直感的には物販、イベント、著作権関連、映像化等から発生する収益力が浮かぶが、そういった直接的に測れるものの他に、今回の騒動からは、集客力に連動する顧客データーベース構築力というビジネス上最も重要な価値を持っていることが見えてくる。

そう考えると、キャラクターは収益化循環の中心的存在なのだ。

キャラクタービジネス恐るべし。

あー、可愛い顔したキャラクター程、金の亡者に見えてきてしまう僕は純真な心を失ってしまったのか!

いや、むしろこの感覚は、女の子系キャラクターに取り憑かれている娘とも早めに共有するべきかもしれない。

キャラクターを別の角度から捉えること、例えば、創造する側になって考える楽しさだってあるよねと。


2014/07/10

台風とサーフィン


僕はサーフィンが好きなのだが、実は小さめの波が好きだ。大きな波(オーバーヘッドクラス以上)はちょっと腰が引けてしまう。

腹〜肩位が一番楽しいと感じるサイズだ。

とはいえ、日頃その位の波もあまり立たない湘南エリアに住んでいると、台風が近づくにつれ波を期待する気持ちが自然と高まる。

ましてや、パワーのあるデカイ波が好きな中級〜上級者サーファーにとっては、それはそれは楽しみであろう。

しかし、近年の大型化した台風は、同時に大きな災害ももたらす。サーフィンなどやらない人々にとっては台風は迷惑なものであり、恐れの対象でもあるのだ。

まさに自然は、人間にとって恵みにもなれば脅威にもなる。

そんなわけで、少なくとも自然への感謝の気持ちを持って、なるだけ謙虚にサーフィンを楽しませてもらいたいものだと日頃から思っている。

自然の恵みによって生かされている僕らは、それぞれが何らかの形で自然への恩返しを考え、そして小さなことでも実行していく姿勢をそろそろ真剣に持たなくてはならないのではないか。

僕らは文字通りエコシステムの一員なのだから。

台風が関東をかすめて行った。今日は鎌倉も波がデカイだろうなぁ


2014/07/08

人事・マネージメント

故あって細かなマネージメントをさせてもらう機会が訪れた。

勿論これまでの経験を活かす場面でもあるのだが、現状に即して新たに学び直すということが大事だと思っている。

まさに、「古きを温ねて、新しくを知る」ってやつだ。そこが面白いと感じている。

Amazonをざっと見渡して見ても、世の中にはなんと多くのマネージメント、人事関連本が存在していることか!

世界には、これらの関連本が売れた数だけ悩み抜いている人がいるんだろうな。いや、それ以上か。

それだけに、この分野にはステレオタイプでは論じきれない千差万別のケースがあるということだ。最終的な対象は人間であるのだから当然だと思う。

「人間とは?」という問いには、数多の哲学者ですら解釈は色々だ。(よね?)

そう考えてみると、この認識からスタートすれば変な悩みを抱える必要は無い。理論の前に人間に関心があるかどうかをまずは自分に問うてみる。好きならまぁ楽しんでやれるし、そうでもなければ、より良く学んで実践しながら試行錯誤して行けばいいだけの話。

まずは、現状把握フェーズから。

※個人的興味分野の掘り下げは暫しお預けかな。

2014/07/06

ゲームの可能性

ある分野に関心を持っていると、関連する情報をキャッチしやすくなってくるものだ。

最近は、未来の地球環境に個人的関心が引き寄せられていて、選択する本やサイトもそういった類が増え始めている。

そんな感じで、帰国前の空港ラウンジでつらつらネットサーフィンしていたら、環境団体で有名なGreenpeaceのサイトで紹介されているゲームに目が止まった。


Greenpeace - Ocean Apocalypse from Toby & Pete on Vimeo.

映像からは詳細を掴むことが出来ないが「ゲームを通して海洋の生態系を学ぶ」というアイデアにはちょっと感心した。

個人的な経験からは、「ゲーム=時間潰し=子供の教育にはイマイチ」という短略的な考えをしがちで、しかも射幸心を煽ることでしか収益化出来ないのでは?といつしか思い込んでいた節がある。

しかし、見方を変えてみると、社会の問題解決に貢献するという点でも、ゲーム産業にはとてつもない可能性があるのかもしれないなと思った。

子供にとってもゲームは面白いもの。単に「ダメ」などと否定していても、隠れてもやってしまうのは止められない。だからそんなやり方はあまり意味はない。

ならば、エントリーとして「こんなゲームはどう?」という投げかけもあるわけだ。娘が、ゲームを通してでも自分から学びたい対象を見つけてくれれば、それはそれで素晴らしいことだと思う。

こういう大人の勝手な思い込みが、子供ならずも自分自身の了簡をも狭めてしまうのだろうな。


2014/07/05

撮影中止か〜



今日のシンガポールは朝から凄い雨。

今日予定されていた合同撮影会はウエイティングの末中止となった。

シンガポールの撮影会には久し振りに参加予定だったし、色々と観察すべきポイントを自分なりに設定していただけにとても残念だ。

ところで、"雨天中止"という結果には色んな考え方、捉え方ががあると思う。

まず、反省点としてはバックアッププランを用意出来なかったのか?という点。

雨が予想されるなら、最低限リカバリー出来るよう屋内ロケーションに切り替える準備もしておくべきだったのかもしれない。

勿論僕もフォローアップしていたので、気付かなかった落ち度は自分にある。

以前、自分でフォトプロダクション会社を経営していた時は、口すっぱく言ってたものだなぁと、分厚い雲から降りしきる雨を眺めながら考えている。

もう一つの見方としては、メンバーに少なからず休める時間が出来たことだ。これは根本的な部分として、正直ほっとしている。

最近のメンバーのハードワークには、頭の下がる思いであったし体調も心配していた。結果として、バックアッププランに気を回せない程に余裕のない状況を作ってしまっていた要因でもあるだろう。この辺りは真面目に改善が必要だ。

とはいえ、朝早くから起き、天候ウエイティングをして、中止決定後には参加予定だった皆さんに連絡作業をするなど落ち着かないわけで、完全なる休みかと言われればそうではないかもしれない。

それでも今日はお休み!と気持ちを切り替えて貰えると有難いなと思う。

多分、僕自身が率先してそうならなくちゃいけないのだろう。

僕が働くピクスタという会社には、ピクスタウェイという行動指針があって、その中に「orではなくandの精神」という項目がある。

まさに今発揮すべき時だ。仕事も追求し、充実した休日も又存分に楽しむことだ。

というわけで、二度寝しまーす!



2014/07/04

三上から抜け出てみた。

昨夜。色々考え込んでしまって、あまり寝られずベッドの上で漫然と過ごしてしまった。

だからと言ってその対象を煎じ詰めるほど考え込んでいたかというとそうでもない。

調子の悪いスマホをいじったり、本に手を伸ばしてみたり、天井を見つめてみたり。最後には無意味な一夜を過ごしてしまったなと明け方嫌な気分になった。

そんな夜はシンガポールだろうが日本だろうがどこも同じだな、なんていう気分をブログに書こうかというリスキーな行動に出てしまいそうにもなったが、こんな精神状態では内容もネガティブになってしまうものだから途中でやめた。

そして、ふと思い付いて気分転換にシャワーを浴びた。

体に当たる水飛沫を感じながら、さっきまで何と無く引っ掛かっていた事柄も同時に流れ去ってしまったかのように、爽快な気分になれた。

ところが、そんな気分のままバスタオルで髪の毛をガシガシ拭いているときに、あるアイデアがふと浮かんできたのだ。それも昨夜、どれもうまく繋がらないなと、悩んでいた幾つかのパーツも何と無くだかスッキリはまるような気がしてきたのだ。

バスタオルを腰に巻き、すぐにノートを開いてアイデアを書き連ねてみた。(こんなときは紙のノートだね)

うん。いいぞ!

アイデアが閃く場所として三上と言われるが、今回はその場所の一つ(ベッド)から抜け出た後に起こった現象。

着想を得るためには、何かに縛られていた自分を、一旦自由にしてやることが何と大事なことかを実感した一夜だった。

ただし、何かにとらわれつつも、一度は深く苦しい位に考えて抜いてみることがあってこその閃きにだとは思う。

しかし、眠い。


2014/07/03

人生色々と思えるか。

仕事をしていると色々ある。

楽しいことの方が少ないかもしれないけど、仕事をすることで得られるコト、モノも多いのは事実。

そして大半の人は、人生のかなりの時間を仕事に費やしているのもまた事実。

仕事=人生とは言わないが、かなりの部分を占めているわけだから、もし仕事で嫌なことがあったとしても、人生の中で遭遇する、色々な出来事の一部だと思えるかどうかで次の動きも変わってくる。

一頻り、悔しがったり、悩んだりした後は前を向いて歩こうじゃないか。

どんなになったって人生は続いていく。

Life is go on.

僕も色々あって今がある。それに今だって色々ある。それは死ぬまで続くのだと覚悟している。

色々あるのは君だけじゃないってことさ。






2014/06/29

格好つけない

実は、今日は違うエントリーを準備していた。

休みだったこともあり、少し時間をかけて校正したりもしていたのだけど、その記事をアップするのはやめることにした。

なぜかというと、ちょっと力みすぎてしまったから。良いことを書こうとしてあれこれと修飾が多くなり、結果言いたいことのてんこ盛りになってしまったからだ。

自分で声出して読んでみて、違和感の塊のような文章になってしまった。

あーやーめた、とホテルのベッドに寝転がりながら、もっと正直にならないとダメだななんて考えていたら、閃きが降りてきた。

この気持ちをそのまま書けばいいじゃないかと。

というわけで、このブログは自分の思考を深めることを目的にしているということを改めて振り返りたい。なるべく格好つけずに肩の力を抜いて、その時考えていることを書き綴っていくよう心がけていこう。

2014/06/28

「競争戦略から協調戦略へ?」

2052 今後40年のグローバル予測

先日の蛍体験以来、生物の生態や進化に興味を持ち始めた。

しかし、選んだ本は未来予測の本。本書は2052年の世界はどうなっているかというテーマを五つの分野を中心に描いてゆく。

何故関連があるかと思ったかと言うと、生物界の未来は地球環境の動向に大きく左右されるのは自明の理。そして、その変化に多大な影響を及ぼすのが私達人間の行動だ。だから、この先この世界はどうなってゆくのだろという将来のあるべき姿の仮説をまずは持ちたいと思ったからだ。

未来を見据えることから始めて、それから生物進化の過程と生態を学ぶという流れは、ある意味人と違った見方が出来るのではないかなとも考えている。過去は未来へと続くのだとしたら、その進化はどこに向かっているのか。それが知りたい。これは事業運営の方向付けにも取り入れたいアプローチでもある。

まぁ単純に1つ1つ順を追って丹念に学んでいたら時間切れになってしまうという理由もあるけど。

本書は読み始めてまだ15%程度だから、この時点では書評的なものは書けないけど、いきなりガツンと来た部分があったので備忘録として引用しておく。

ダーウィン理論の核となる、生物は競争と敵者生存によって進化したという考え方は廃れ、より高度な生物は支配によってではなく協力によって進化する、と考えるようになる。
ダーウィンの進化論は半ば常識的な考え方だと思っていたが、環境の変化はその理論をも覆す可能性があるわけだ。ビジネスで例えるならば、ポーターの競争戦略が「協調戦略」に置き換わってゆく可能性だってある。いや、この流れは至るとろこで既に生じているようだ。

本書はかなり分厚い本なので、今回のマレーシア出張での良き友となってくれそう。

さ、今日はマレーシアの大手プロダクションと12時間ぶっ続け撮影。頭切り替えて行ってきます〜

2014/06/26

バナナフィッシュ

サリンジャーの短編小説に出てくるバナナフィッシュ。

彼らは、バナナがどっさり入った穴の中に入った途端に豚のように行儀が悪くなり、バナナを大量に食べた挙句、穴から出られなくなり、果ては死んでしまう。

人間世界にも、このバナナの穴のようなところが沢山存在する。誰もがわかる致命的な場所はある程度回避出来ても、それとは気付かないところが厄介だ。

そこにいるとなんとなく気分が優れなくなって、イライラしたりやる気を吸い取られてしまうような場所だ。

そんな場所は極力避けたいのが正直なところだけど、生きていく上では避けて通れない場合もある。

ならば、避けることばかり考えるのではなく、どうやってくぐり抜けたら良いのかを考えたい。

致命的な場所には近付かない危機察知能力と、止むを得ず迷い込んでしまったらなんとか切り抜けようとする対応力と、そんな二つの能力があれば何とかなりそうだ。

ともかく、本能のままに生きてるバナナフィッシュのようにはなりたくないな。

さて、これからシンガポールに行って来ます。明日からは現地レポートを中心にお送りします。たぶん。

2014/06/25

シンプルなコミュニケーション

組織内で何かを伝える時のコミュニケーションは、シンプルであればあるほど機能すると最近になって思えるようになった。

いや、より今の思いを正確に言うならば、「意識的にシンプルにすべきだ」と考えている。

伝えたいことに二重三重の意味や階層を持たせるからややこしくなる。

何があろうと、何が決まろうと、そこに覚悟を持っていれば、自分(達)はどのような考えでこの結論に至ったのかの一点に絞ってクリアに伝える。

仮に、伝えたいことに齟齬が生じれば(まぁ、通常は生じるのだが)、それは何故なのかを当人(達)ととことん話し合う事で、まぁ互いに70〜80%握れる状態に持っていく事が出来れば一先ず合格ラインだ。

とことん話し合う必要性を感じられれば、話し合うという行為に時間と金をかけることに躊躇しないことだ。必要だと思えないから行動に移せないのが問題なのだと思う。

そして、必要だと思えるかどうかは、感性による部分が大きなウェイトを占めているのは無視出来ないと思う。

例えば「あー、あの人何だか納得してないようだな」とか表情から汲み取れるかどうかとか。

その感性はその人が過去にどんな本を読み、どんな経験、体験をしてきたかによって培われる。そして、それらを振り返ることが出来ていれば過去にはきっと人に辛い思いをさせてるし、自分自身も何かしらの傷を受けている事がわかるはず。

それらの積み重ねがコミュニケーションの感性となって内面に宿るのだ。

これからも感性を磨き、シンプルなコミュニケーションを心がけようと思う。


2014/06/24

子供の習い事

幼稚園の娘は、現在四つの習い事をしている。

体育系
・スイミング
・体操
知育系
・めばえ
・ピアノ

全て妻の方針によるものなのだか、このラインナップをみて大変素晴らしいと思った。体育系と知育系のバランスが取れているからだ。なかなかやるじゃないかと改めて感心&感謝している。

僕は幼少の頃、あまり習い事をした記憶がない。習字や算盤などに行かせてもらったことはあるが、三日坊主で終わってしまった。だから幼稚園児がこんなに習い事をしていたら大変じゃないか、という思いもあった。

しかし、たまの平日休みに娘の習い事に付き添ってみると、本人が楽しくて仕方がないらしいということを感じることが出来る。決して嫌々ではないのだ。

事実、日曜日はプール行をせがまれて習った泳ぎを披露してくれるし、寝る前には体操でやったブリッジをしている。めばえから帰ってくればすぐさま知育教材のカルタで復習をしている。ピアノの練習に至っては毎朝だ。(もうすぐ我が家には電車ピアノがやってくる)

つまり、バランスの取れた習い事に「楽しさ」が加わって、予習・復習を自らが進んでやっているという、目下最強の状態を呈しているということだ。

端で見ていて、本人が楽しんで、一所懸命取り組んでいるのを感じられるのは親としても大満足だ。

一時は、泳ぎが出来なくてプールに行きたく無いと言ってギャーギャー泣いていたのを思い出すが、今では背泳ぎまで出来そうな勢い。小さな壁を幾つも乗り越えているんだなぁと感心する。

そういう側面で見ると、もしかしたら妻はコーチングの天才かもしれない。いや、ウチの妻に限らず世の母親達はそういった部分が少なからずあると思う。

何と言っても”ヒト”の成長をサポートしているわけだからね。

平日に子供と一緒にいれない世の父親達は、そんな子供の成長に関し、何か大事なものを見逃しているのかもしれないなぁ。

2014/06/22

蛍の様な疑問符

蛍は、幼虫の時カワニナという貝の一種を捕捉して食べているということを昨日始めて知った。

蛍。その生態など殆ど気に止めたことが無かった。何と無くだが個体数が激減しているらしいということを小耳に挟んだことがある位だ。

久しぶりに帰国した週末の昨日、家族で行った近くの自然公園では、主に蛍(ゲンジホタル、ヘイケホタル)の保存に務めているらしく、所々に立つ看板を通して少し学ぶことが出来た。

蛍が生きるには、エサとなる貝が生息出来るような淡水がまずもって必要であるし、生育してからは闇が必要だ。明るい場所はどうやら苦手らしい。

もう僕らが生活している周辺ではそのような場所は限りなく減っている。謂わば、人間によって彼らの住む場所が減らされているという事になる。

その発光する美しい光でもって人間を喜ばしてくれている存在なのに、何とも皮肉だなと思った。

蛍を守らなきゃねと娘と話していても、どうすれば良いのかというHOWの部分が全く頭に浮かばない。

蛍に限らず、僕自身驚くほど生物に関する知識が不足している。野に咲く花の名前も知らないし、何で象は大きいのかと娘に問われても、生物の進化についてなど、スマホの電波が届いていなかったり、電源が切れていればお手上げ状態だ。

蛍にとってのこれからの時代はどうなるのか?環境変化について来れない種として淘汰を妥当だと割り切る?いや、そもそも蛍が生きにくい、この環境変化自体が問題なのではないだろうか?

一体娘にどう答えれば良いのだろう。

僕の頭の周りはそれこそ蛍の様な沢山の疑問符が舞っていた。

今こそ学び始める時なのかもしれないな。

2014/06/21

ミニマムな生活と移動

東南アジアをめまぐるしく動き回っている。

それは僕なんかよりも遥かに凄い人はいるとは思うけど、それなりには移動の多い方だと思う。

そんな慌ただしい中では、行き先の土地や人々をじっくりと観察したりはできないわけだけど、ちょっと違った視点で周りの風景を見ている自分がいることがある。

例えば、タクシーでの移動。

午前中のアポイントが終わり、一旦ホテルに戻ってすぐさまチェックアウトしてローカルの空港に向かう、なんてシチュエーションだと、タクシーに乗り込んだ瞬間はなんとも言えない安堵感に包まれる。

そんな心情で流れゆく景色を眺めていると、例えば豪邸の家が並ぶ通りに出たりする。凄いな、あんな家に住んでみたいな、と思うと同時に、豪邸の数々が全く意味を持たないもののようにも見えてくる。

最近は「所有する」という行為に対してなんとなく懐疑的になって来ているのだ。

それはやはり移動する生活という現在のこの状態が影響してると思う。

移動する生活を送っていると、とにかく持ち物がシンプルになってくる。いや、シンプルにせざるを得ないのだ。パッキングにあれこれと時間や気を使うなんて些事は極力避けなければならない。

自分で洗濯しやすい服や、細々としたものをひとまとめにできる入れ物など、極力持ち物をミニマムにするよう心がけている。

で豪邸である。豪邸こそとてつもなく邪魔で、全くの無意味な存在ではないのか!あんな家をどこかに所有していたら、必然的にそこが生きる基盤となってしまうだろう。それは何となくだかが視野や行動を縮めてしまうことになるのではないか?と思う。

ネットの普及はある程度世界を繋ぐが、それはリアルな体験や経験と補完関係を築く事で更に威力を発揮するものになる思う。それは今この仕事をしていて本当に実感しているのだ。ネットで広まっている情報が全て正しいとは限らないし、やはり自分自身で確かめる事が必要だと思う。

だから、ネット時代こそ移動し、様々な人や現実に触れ、知覚する、認識する、という行為がむしろ重要になってくる。

そんな時代に強いのは直ぐに動ける「ミニマムな人間」である。多くを抱えていては動きが取れなり。そうミニマリストが理想型かもしれない。単なるミニマリストではなく、「移動のし易さを目的とするミニマリスト」だ。

”持ち家はありえんな。狩猟民族のような家族を目指すかな”なんてタクシーの中で考えていた。

ふと目を開けてタクシーの窓に目をやると、外の景色はいつの間にか閑素な豪邸街からハイウェイに移っていた。

「そんなの、ありえねーだろ」という妻の声が聞こえる気がした。

2014/06/16

Petaling Jaya 最終日


Petaling Jaya出張最終日の朝。

昨日、マレーシアで恐らく始めてのストックフォトセミナーを無事に執り行うことが出来た。

開催が目的ではないが何につけ"初もの"は価値があると思うたちであるし、ある種の手応えも感じているので70%程度の達成感はある。セミナーの話は後日まとめようと思う。

ところで今日はこれからこちらマレーシアでも規模やクリエイティブのクオリティの面で1、2を争う制作プロダクションとのミーティングだ。

これまでも幾度となく伺っているのだが、今回はビジネス面を見ている共同パートナーも出席してくるとのことで気合が入る。

いつもクリエイティブの話しかしないから、こちらではそちらよりのように見られているが、僕は証券会社あがりのどちらかというとビジネスよりの人間だ。昔の知人からすればむしろ「内田=クリエイティブ」の図式の方が不自然に映るようだ。「似合わねー」とよく言われる。

僕にとっては全く違和感ないのだが、まぁ、いい意味で変われているということでポジティブに受け取っておこう。

先方からはどんな話が出てくるかとても楽しみだ。

というわけでミーティングをこなし、夜の便でシンガポールに向かい、明日日本に帰国する。帰国したら娘に会って抱きしめるのがこれまた楽しみの一つ。

彼女、最近嫌がるようになったけどね。



2014/06/14

1人で飲む@Petaling Jaya


僕はお酒は嫌いではない。かといって飲まずにはいられないという程好きでもない。

誰かと飲んでるその場が好きなんだろうと思う。酒よりも人、ということかな。

ところが今今はマレーシアのとあるバー(写真)で一人で飲んでる。というのもさっきまで一緒にいた才藤君が突然ホテルの部屋に帰ってしまったからだ。

淋しいな、おい!

まぁ、それは仕方ないか。飲めないのにワイン付き合ってくれたからね。
これ以上無理強いをしてはいけない。

うん。僕も成長したよ。

というわけで、飲み足りないおじさんは、あと一杯だけのシングルモルトをちびちびやりながらマレーの夜を過ごすのである。

現場から生でお伝えしました。

2014/06/13

才藤君(仮名)

ウチの若手の才藤君(仮名)

まだ、25歳なのに、いや25歳だからこその生意気風な彼は、実はアジアチームのホープでもある。聞くところによるとシンガポール法人の社長になりたいと言っているらしい。ふむ。それってこの僕に宣戦布告しているわけだね。上等だ。

そんな彼と、今はマレーシア出張で行動を共にしている。コスト削減でホテルの部屋も一緒だ。

こういった機会は互いを知る機会でもある。ここぞとばかりにあまり飲めない彼を誘って、琥珀色をしたシングルモルトをチビチビやりながら、根掘り葉掘りあれこれと彼の懐を深掘りした。へーって話が沢山あるのだが、わかる人はわかるからプライバシーの為にも内容は控えておく。

僕は、基本的に人間に興味があるから、そんな時間が楽しくて仕方が無い。

それに、人の話を聞く時は自分の話もするものだ。つまり互いの理解が進むということでもある。

こういうのウザいと言われる諸氏も多いかもしれない。しかし、仕事には人生の中でも多くの時間を費やすものだ。だから仕事で行動を共にする相手と理解し合おうとすることはとても意味のある事だと思う。マネジメントに活かすとかそういうレベルの話ではなくてね。

世の中には色々な考え方をしている人がいる。仕事ということであっても、何かの旗の元に集まっているわけだが、それは盲目的についてこいというものではない。多様な考え方を本質的に尊重しあえることが出来るかどうかが、うまくいく秘訣だと思う。許容じゃなくて尊重だ。東南アジア地域を徘徊しているとつくづくそんな気持ちを抱く。

とにかく、そんな僕を楽しませてくれる彼は、興味深い男ではあるし、将来が楽しみだ。是非僕のポジションをテイクオーバーして欲しいものだ。

こちらも抜かりなくやるつもりだけどね。


体調管理について

仕事にしろ遊びにしろ何かに取り組む為に最も重要なのは体調管理だ。

体調を崩すと何も出来なくなるのだから当たり前のことなのだけど、とにかく大事。

だから、遊びすぎ、働きすぎで体を壊すのは結果として目的を果たせなくなるのだから本末転倒。

仕事でアジア開拓を任されて約1年になるが、こちらでは自慢じゃないが風邪などで体調を崩して寝込んだことはまだ一度も無い。

気を張っているからというのもあるかもしれないが、体調管理にはチョコチョコと意識をしているのが良い結果を生んでいるのだと思う。

朝起き抜けのストレッチと10分間の瞑想。週5回のスクワット。ちょっとした時間を見つけては休息にあてる。夜は直ぐにベッドに入る。豆乳、ナッツ、野菜類を摂る。あまり食べ過ぎない。余計な酒は飲まない、、、

そんな事。日々のちょっとしたことで体調は維持できる。

自分の体調に耳を傾けてどうしようかと考えること。そして小さな処置の積み重ねが体調を大きく崩さない秘訣だと最近わかってきた。

誰でも疲れる。だけど大崩れさせないことは自分の力である程度はコントロール出来ると思う。

それでも疲れやストレスが溜まるのなら、そもそもの仕事量なのか仕事の仕方を見直す事も必要だろう。

仕事や遊びを楽しむ為にも体が資本なのだ。

あと、家族の為にもね。これが最大のモチベーション!

※今このプログを、マレーシアに向かう空港の搭乗待ち中に書いている。あちらではローカルのプロフォトグラファー20人相手にストックフォトの魅力について話してくるので、資料を読み込むか、ブログ書くかで迷ったがブログを書いた。結果として気分転換になったからブログを書いて良かった。セミナーの様子はいずれ書こうと思っている。

2014/06/12

マレーシアのタクシーアプリ

マレーシアのタクシーアプリでは、もうここがダントツ。
Grabtaxi.(マレーシアでMy Teksi)
http://grabtaxi.com/singapore/

誰に聞いてもここの名前が出てくる。
この状況からは、さすがのUberも同国でのシェア獲得は厳しいかもしれない。

それにしても、タクシーの配車アプリは、むしろマレーシアのようにメガ都市を中心にして栄えているような発展途中にある国や地域でこそ必要なのではないかと思う。

まずもって都市間の移動手段が車中心。それに加えて、タクシーのカルチャーとして、メーターが無い、ちょっと怖かったりで気軽に乗れない、またはタクシースタンドが少なく拾うのが難しい、といった環境こそがこのサービスを必要としていると思う。

東京で配車アプリの必要性を感じたことはあまりない。今のところアーリーアダプターが試してる感じ?まぁそもそもあまり乗らないか。シンガポールも東京に似てそんなに必要性を感じる都市ではない。電車やバスの交通期間が素晴らしく発達しているし、ある程度どこででもタクシーを拾うことが出来るからね。

ところでUberは最近巨額の資金調達をしたと聞く。自社が出遅れている地域の先行企業を買収することも当然考えている中の人もいるだろう。

その意味ではローカルを押さえているMyTeksi優位の前提も疑っておく必要はある。それに対抗して他国への進出という施策のハードルの高さを考えると、イグジットの選択肢も限られるよななんてスマホのちっぽけなアプリアイコンを眺めながら妄想している。

だけど消費者にとっては寡占はあまりよろしくない。個人的にはMyTeksi頑張れーという気持ち。

余談だけど、Uberのサービスを「移動する行為周辺ニーズがネットワーク化されたプラットホーム」だと考えると、そこから産み出される可能性は色々考えられそう。旅行系もつながるし、Airbnbみたいなサービスとの連携も考えられる。レンタカーやカーシェアリングも取り込めそう。

同社の戦略を調べてみたわけではないけど、アジアを飛び回っていると、本当になくてはならないサービスだと感じられるだけに、同業界のこれからの展開がとても気になっている。

2014/06/11

続けること

約一ヶ月振りのブログとなってしまった。

シンガポールに来てからのこの数週間、ブログを書けない沢山の言い訳を自分にしてきた。つい先日あるメディアから受けた取材でも、モットーは?と聞かれて「1日1日の積み重ねが大事」と答えたばかりだ。恥ずかしい限り。

今日から出直ししていくしかない。

ところで、なぜ急にそう思えたのかというと、今日という1日が全く機能しなかったから。1日中ヘマばかりでほんとにリズムが良くなかった。電車のカードやMacの電源を家に忘れたし、メールでもミスを連発した。

溜まっている疲れも影響しているのだろう。注意力が散漫になっている自覚はある。そんな反省の多い日だったのだが、逆にいうとこの程度の状態で収まってくれたのはよかったかも。バイオリズムが最低の時期だから、今この瞬間が最悪だと考える事もできる。あとは上がるしかない。

だから、とにかく気持ちを切り替えてまた頑張って行こうと思っている。

と同時に喉に刺さった魚の小骨状態だったブログも再開しようということでリスタート。

がんばります。

2014/05/19

演じること

人は多かれ少なかれ、生きて行く上で本当の自分とは異なる部分を演じていることがあると思う。

薬物やアルコール、ギャンブル依存絡みの話に触れるとそんなことをふと考える。

以前かじった社会学の中で「ドラマツルギー」という考え方がある。それはまず自分という存在は他者がいて始めて成り立つというものであり、そして、その他者をオーディエンス(観客)に見立て、彼らに自分がどのように見えているかの認識を通して自己を確立してゆく、と確かそんな意味だったと思う。

この考え方に従えば、人はオーディエンスの期待に答えようと本来の自分とは異なる姿を演じようとする動機が強く働くことになる。

うまく演じきれればいいのだけど、そのギャップが大きすぎると、何処かでその差を埋めようとついつい無理をしてしまうのかもしれない。

特に有名であることで仕事をしている方々などは、そういう面では精神的にも相当強く無いとやっていけないだろうと思うが、何もアーティストだけでなく、普通のビジネスパースンや、親、子供だって当てはまるはずだ。

つい先日も「組織のリーダーという姿は多かれ少なかれ演じるものである」という話も聞いた。

個人的には、本来の自分と演じる部分はバランスを取っていくのが良いと思う。しかしその一方で、振り切れるくらいに何者かを演じ切れなければ、偉業を達成する名優にはなれないだろうなとも思う。

勿論、大前提として「何を演じるか」の設定が重要なのは言うまでもない。それがなければ、只々オーディエンスに翻弄される人生になってしまう。

2014/05/10

歴史の文脈とイノベーション : (映画)モニュメンツ・メン(邦題:ミケラン ジ ェロプロジェクト)

シンガポールからの帰りの便の機内で、映画「モニュメンツ・メン(邦題:ミケランジェロプロジェクト)」を観ました。

リンク先のwikipediaには、
第二次世界大戦時にヒトラーによって重要な美術品や文化財が破壊される前に奪還を試みる連合軍の活躍が描かれる。 
と、内容が端的に説明されています。それも史実として、数百万点という膨大な数の絵画、彫刻その他の作品が救われたというのです。

数多くの偉大な芸術作品が、彼らによって破壊から守られたという事実は賞賛に値するものと思います。また全編を通して語られる「人命をかけてまで芸術作品を守る価値があるか」というテーマにも色々と考えさせられました。

一方、もしもこの大戦で、これら芸術作品の全てを消失してしまっていたとしたら、現在のアートシーンは一体どのようなものになっていたのだろうかという点が気になりました。

映画を見終わってまず思い出したのが、芸術起業論というアーティストの村上隆の著書です。家に帰ってパラパラめくってみますと、彼は芸術で評価される(高く売れる)といことについて「作品を通して世界の美術史に文脈をつくりあげること」と述べています。

つまり、芸術市場で本当の意味で評価される為には、世界における美術史の文脈をしっかりと理解していなくてはならないということです。

彼の主張を借りますと、もしナチスのこの行いが全うされていたとしたら、過去の文脈を脈々と引継いで来た現在のアートシーンそのものが、全く異なるものになっている可能性もあるわけです!

ちょっと思考が飛びますが、ナチスは「創造的破壊」を通じて美術史の文脈を書き換えることで、自国による芸術市場の新しい世界構築を狙っていたのでないでしょうか。なんて仮説も立てることができます。

それはそれで、斬新な芸術世界が構築されていたかもしれないと思うと刺激的ではあります。

しかしながら、ビジネスにおける創造的破壊は過去を否定することから始まります。

それは、取りも直さず偉大な過去があればこそ、その多くを否定することができ、更に一部を取り入れながら次世代へのイノベーションにつなげられるという事なのです。

そう考えると、やはり多くの芸術作品が残ったという事は大きな功績だったと考えるべきなのだろうなと思いました。

芸術に限らず、その分野の歴史を「過去からの文脈」として理解することは、次世代にイノベーションを起こすためのきっかけにもなりそう。

やはり学びは大事です。

2014/05/06

タクシー事情 in マレーシア

photo credit: thienzieyung via photopin cc (写真はイメージです)

マレーシア出張時の事ですが、とある地方の撮影場所から、クアラルンプールなどの中心地に帰る場合は、メーター無しのタクシーに乗らざるを得ない場合が多いのです。

メーター無しというのは文字通り料金メーターが付いていなくて、交渉で金額を決めるスタイルの乗り物です。「スタイル」というとアレですが、要は如何にボラれないようにするかどうかがポイントの非常に緊張感ある乗り物です。

ある程度の正規料金の感覚を持ち合わせていないと、完全にあちらさんの言値になってしまうので、交渉に際しては、最低限距離と時間帯などを考慮にいれておく必要があるでしょうね。

幾多の修羅場をくぐり抜けた私くらいのレベルになると(!!)、最近は、日本人以外のアジア人のふりをして交渉を始める手法を編み出しましたので、大体狙い通りの金額に落ち着けることができるようになりました。努力と経験の賜物ですが、それでも若干緊張します。

まぁ、ネットではこれをぼったくりタクシーと批判する向きもありますが、タクシードライバーと話をしてみると一概にそうとは言い切れない側面もあります。実は彼ら、一日分のレンタル料金をタクシー会社に払って車両を借りているのです。もちろん最低保証もなにもありませんから、如何に稼ぐかは自分の腕次第なんですね。

で、一日幾らなのよ、と聞いてみますと、そのドライバーは60リンギット(日本円約2000円)だと。安いじゃないかと思いますが、物価からしてもそんなものなのかなと、妙に納得したりしました。

そして、彼らも一所懸命なんだなと感心して優しい気持ちになりながら話を聞いていると、いきなりコーヒー関連のネットワークビジネスに誘われたりもします。サンプルあげるから一杯飲むか?と。「どこでだよ!」と急に不安になったりしますが、「時間がないんだ。頼むから先を急いでくれ」とその時は何とか振り切りました。

それはそれは油断できない乗り物です。


2014/05/05

全てはフェイクから始まる

デジタル写真のクオリティはもはやレタッチなくしては語れない時代です。

最近ではやり過ぎな感のあるレタッチに批判的な見方も出て来ています。特にファッションや広告の世界ではその傾向が高いようにも感じます。

確かに、モデルの体型や肌の原形を留めない、言うなれば現実には存在しない全く別のものにしてしまうような修正を施して、雑誌のファッションページや広告を作ってしてしまうのは、現代のモラル感でいえばやりすぎと批判されても仕方が無い側面があるかもしれません。そして、一見その批判は正当であるように見えます。

しかし、どこまでが適正で、どこまでがやりすぎなのか明確なルールは存在しませんし、個人的にはそのようなルールは誰かが決めるものでもないと考えています。何故なら、デジタル表現に関する技術の進歩をそもそも止める事はできないですし、進化と共に社会の見方も変わってくるからです。何かを可能にする技術が存在していれば、使わずにはいられないのが人間というものです。

なので、これは制作側のモラルを批判したところであまり意味は無く、私たち受けて側の課題として捉えるべきではないのかと考えています。

例えば、大変失礼な話かもしれませんが、ファッション広告上でレタッチを施して仕上げられたモデルを、流行の服を着せたマネキンみたいなものであると考えてみてはどうでしょうか?マネキンに文句を言う人はいませんよね。

現代の世界では、そのくらいの改変が当たり前のように行われているという現実を直視すべきです。

つまり、ファッション雑誌や広告に出ているモデル、有名人やある意味ハンバーガーの写真など、まずは「ある種のフェイク」である前提で捉えてみるのです。そして、その出来のレベルに対して善し悪しの判断をすればいいのです。

フェイクである前提の広告写真は、現実の表現では不可能であるような、理想の姿を提示してくれていると受け取るのか?それとも現実との乖離を認識することで批判的な見方をするのか。いずれにしてもそれらのギャップに対する受けて側の認識がとても大事になってきます。

全てをフェイクと捉える事から自分なりの真実を見極めることができるかどうか。デジタル表現時代に身につけるべきスキルと言えるのかもしれません。

個人的には、元の素材を活かしたナチュラルな表現技術に好感を持ちますけど、コンセプトによってはフェイクに振り切ったイメージもそれはそれで見応えがある時代であるとは思っています。

2014/05/04

0→1(ゼロイチ) と1→10 (イチジュウ)

「0から1にするのが得意な人と、1から10にするのが得意な人がいる」
ウチのマネジメント層のメンバーが、あるセミナーで聞いて来たという話の一端です。

前者は事業の立ち上げフェーズで力を発揮する人で、後者は立ち上がった事業を仕組み化しつつ更にスケールさせることに長けている人、と言い換えることができます。

これは確かにそう言えるなと思いました。私なんかは典型的なゼロイチタイプだといえます。そういったところにどうしようもない情熱を感じてしまうのはしかと自覚しています。

得意な分野にフォーカスして、ある種のスペシャリストのような働き方ができるとそれはそれでいいかもしれません。俺は立ち上げ屋、的なキャッチフレーズでも付けてみて。

しかし、どちらか得意な分野だけの仕事をしていれば良いということにならないのが現実です。実際の業務は両方のタイプが常々入り交じっています。

いわゆる事業が立ち上がった後(ゼロからイチになったとの判断は実は難しいですが)でも、事業の成長に伴って小さな「立ち上げ(プロジェクト)」が無数に発生することになります。例えば、関連するサービスをスタートさせたり、ウェブサイトへの新機能の追加などは規模の大小こそあれ「立ち上げ」と言えますよね。

ですから得意分野だからといって、立ち上げっぱなし、あるいは何かが立ち上がるのを待っている、では当たり前ですが、事業そのものが成り立ちません。事業の成長には両者の連続した噛み合いが必要不可欠です。それが継続したPDCAの運用につながっていくと思うのです。

従って、事業を成長させるという共通の目標をもつ組織の中にあっては、自分の長所を認識して磨き上げる事に精を出しつつも、互いの得意・不得意を理解し、補い合うことがとても重要となってきます。

そういう意味では、誰がさんのように、立ち上げという得意分野に邁進しているつもりになっていればいるほど、俺はやってる!と自己陶酔しがちになりがちですから、時たま周りの状況なども気を配り、我が身を振り返ってみるとよさそうですがどうでしょうか?

はい。その通りでございます!

2014/04/28

ストックフォトの現場から。 Vol.2

今日は、マレーシアのとあるフォトグラファーのお宅にお邪魔して、ストックフォト撮影にご一緒させて頂きました。

ご主人も奥さまもカメラマンというこちらの二人には、素敵なご自宅の一部を簡易的なスタジオに転用しストックフォトに取り組まれています。奥の部屋では、産まれて3ヶ月の赤ちゃんのぐずり声も時折聞こえてきました。

そんなほのぼのした現場ですが、撮影は無駄なくテキパキとしていました。互いの担当分野を決め、相手が撮影する時には片方がアシスタントやディレクションに回ったりと、息の合ったお二人のすばらしいコンビネーションに、私の入る隙間はほとんどありませんでした。アドバイスというよりは、私の方が色々と勉強させてもらったくらいです。特に奥さんのその場で繰り出すアイデアが素晴らしかったのが印象的でしたね。

良い嫁もらったよな、と彼に耳打ちしようかなと思ったのですが、2人がとても対等に見えたのでその言葉はぐっと飲み込んでおきました・・・

途中、赤ちゃんが泣き出せばどちらかがあやしに行く、といった場面もあってなんというか、少子化対策は小難しく考えるのではなく、まずはこんなところにヒントがありそうだよなと思ったりもしました。ネットを活用した小規模なファミリービジネスというものをもっと奨励したり、夫婦での独立開業支援策とかも検討の余地がありそう。夫婦で在宅で仕事をすることによって、子育てにもプラスの効果をもたらすのかなと。

今日のようなストックフォトの現場にいると、そんな可能性についてもついつい考えてしまいます。

そういう意味では、ファミリービジネスとしてのストックフォトというのも、新しい切り口だし、社会的にもうまく活用してもらえたら嬉しいですね。

予断ですが、小規模ファミリービジネスを支援するサービスのニーズが高まりそうな予感がしています。ストックフォトだけをとってみても、ファミリーで取り組まれている人々は世界にも大勢いそうですしね。

これについては、また別のエントリーで書いてみたいと思います・・・いつか、きっと。

2014/04/24

アイデアそのものは重要でない???

クラウドソーシングは、もはや私たちの身近な問題をも解決してしまう、まるで魔法の杖のような存在になりつつあるのかもしれません。

即日配達ECは激戦へ…最短1時間で生鮮食品が届く「Instacart」を使ってみた!


昨日読んでいたTechWatchのこちらの記事で紹介されていたのは、アプリから生鮮食品を注文すれば最短一時間で届けるという即日配達サービスの話でした。

実際の使用例が紹介されていますが、その便利さがとても良く伝わってきます。

普段の生活の中で、例えば冷蔵庫を除いてみて野菜が見当たらない場合、その日は早々に諦めてピザなんかを頼むか、またはあり合せのもので済ませるかして凌ぐ事が多いのではないでしょうか。しかし、このサービスを使えば、周辺に契約している買い物を代行してくれるShopperという人々を活用して、最短一時間後には意図した野菜を手に入れることができます。このShopperの存在がいわゆるクラウドです。

野菜を使った料理を作ろうと思い立ったその時でも、何をつくるのかがイメージでき、更には料理をするタイミングすらもある程度把握できるので、時間的ロスもそれなりに調整できそうです。また、売り手も販売の機会ロスの低減が期待できそうです。

日本におけるクラウドソーシングは、デザインなどの仕事発注系や、アイデア共有などの分野で定着しつつありますが、米国では、私たちの日常の瑣末な問題をも”実際に解決”してくれるサービスになりつつあるのです。

ところで、記事を読んだ瞬間はこの事業モデル自体を革新的であるとはあまり思えませんでした。なぜなら単純にスマホアプリを活用した「買い物代行」ですからね。それに、ちょっと考えてみても参入障壁が低そうに思えました。事実、既に激戦状態らしいじゃないですか。

ただ一方では、革新的なビジネスモデルではないけど、「なんかすごいし、なんかすばらしい!」とも感じていました。

その「なんか」の感覚て何だろうと昨日からつらつらと考えていたのですが、今朝、またTechWatchを読んでいたら、下記の記事の中で飛び込んで来た言葉に「はっ」とさせられたのです。

経験者が語るYコンビネーターの魅力とは?革新的なビジネスモデルはどのように生み出されるのか?


この中で紹介されている、あのYコンビネーター出身の起業家の言葉は重要だと思います。

『一般的に、アイディアそのものは重要でなくて、そのアイディアを革新的な方法で実行することが重要だと思うよ。』

と。これですよ。これ。つまりシンプルには買い物代行なんだけど、注文を受けてから即日に配達する(最短では一時間以内)仕組みそのものに、従来の買い物代行とは異なる革新的な部分がある、ということなのですね。そこに表に出ていない彼らのビジネスの本質があるわけです。

あー、スッキリしました。

それにしても、この考え方が様々な分野にも当てはまるのではないかと捉えてみると、無限の起業ネタがありそうじゃないですか?あれとか、これとか、それとか・・・・


2014/04/22

ストックフォトの現場から。Vol.1

ストックフォトの撮影現場において、クリエイティブのディレクションを担当する役割の人がいると、その撮影のバリューアップにつながり易くなります。

設定されているゴールに向けて、抜け漏れを確認しつつ正しく導いてくれる役割の存在は、つい撮影に集中してしまうカメラマンには有難い存在です。

とはいえ、予算等の理由からディレクション担当を入れる事が出来ない撮影現場が殆どなのは承知しています。

ディレクション担当者が特定できない場合でも、もしカメラマンも含めて複数人で現場が運営されているのであれば、カメラマン以外の人が進行管理を担当し、必要であれば参加者全員がアイデア出しなどにカットインできるような柔軟な現場運営というのも一考に値します。

といいますのも、ストックフォトのように一回の撮影で多くのカット数を目指すようなビジュアルづくりでは、ある程度設定されたゴールに向かいつつも、その場の即効的なアイデアが予想以上の価値につながったりもするからです。

そのような環境は主催者(この場合のほとんどはカメラマンかも)が意識して作り出していかなくてはなりません。カットインする人が突然その場をかき回してしまうような(または、そのように周りの人達が感じてしまう)事態にならないよう、事前のコミュニケーションが重要となります。特に初めて仕事をするメンバーとは、その場で思いついたアイデアの共有方法を事前にきっちり確認しておくとより効果的でしょう。

参加する人に「あ、私も何かアイデア出してもいいんだ!」というマインドを持ってもらえるかは重要です。たとえそれがモデルの人であっても。

複数の人から出てくるアイデアを活かす工夫が、費用対効果を上げて行く為の一つの鍵であることは間違いなさそうです。

※ストックフォトプロダクションに携わって10年以上が経ち、アジアでは今でも現場に立つことが多い私の経験や思うことをこれからも不定期で書いていければと思います。




2014/04/20

「所変われば品変わる」

仕事でマレーシアのプタリン・ジャヤというところに来ていまして、今日で3日目となります。

マレーシア自体はかれこれ56回目の訪問となりますが、直近の3回は連続でこの地に滞在しています。それ以前はクアラルンプールに泊まっていましたが、いくつかの視点からここが便利だという判断をしました。

それはそうと、ホテルの一室に落ち着き、デスクに向かって今日一日を振返っていると、ふと、今私がいるこの場所は一体どういう特徴があるのか等、殆ど何も知らないという事に思い至りました。

昨年シンガポールに進出するに当たって東南アジア各国の歴史や経済状況をそこそこに勉強していたのですが、ことマレーシアの地域性には殆ど関心を持てていませんでした。

経済はグローバル化しているというのはもはや常識のレベルです。しかし、一方でローカライズという言葉も重視されています。インターネットの発達によってビジネス自体はグローバルに展開(参入)しやすくなってきています。ところが、サイト言語を増やしてその市場に参入したとしても、それは何の意味もなくて、むしろ国境を超えて事業を展開すればするほど「所変われば品変わる」ということわざの存在感の大きさに気付くのが現実です。

なのに、その「所」の理解がなければ事業の成功は望むべくもありません

表面的なリサーチだけでなく、その国に、社会に、文化に、人々に積極的に興味を持ってゆく姿勢を持ち肌で感じることで、市場のより良い理解に繋がるのだと思います。

あと日間ほどの滞在となりますので、しっかり体感してきたいと思います。

※そういえば、TDL等は最近ジャパンオリジナル化が凄いという話を聞きますよね。同社のやり方は参考になりそうです。