2014/05/19

演じること

人は多かれ少なかれ、生きて行く上で本当の自分とは異なる部分を演じていることがあると思う。

薬物やアルコール、ギャンブル依存絡みの話に触れるとそんなことをふと考える。

以前かじった社会学の中で「ドラマツルギー」という考え方がある。それはまず自分という存在は他者がいて始めて成り立つというものであり、そして、その他者をオーディエンス(観客)に見立て、彼らに自分がどのように見えているかの認識を通して自己を確立してゆく、と確かそんな意味だったと思う。

この考え方に従えば、人はオーディエンスの期待に答えようと本来の自分とは異なる姿を演じようとする動機が強く働くことになる。

うまく演じきれればいいのだけど、そのギャップが大きすぎると、何処かでその差を埋めようとついつい無理をしてしまうのかもしれない。

特に有名であることで仕事をしている方々などは、そういう面では精神的にも相当強く無いとやっていけないだろうと思うが、何もアーティストだけでなく、普通のビジネスパースンや、親、子供だって当てはまるはずだ。

つい先日も「組織のリーダーという姿は多かれ少なかれ演じるものである」という話も聞いた。

個人的には、本来の自分と演じる部分はバランスを取っていくのが良いと思う。しかしその一方で、振り切れるくらいに何者かを演じ切れなければ、偉業を達成する名優にはなれないだろうなとも思う。

勿論、大前提として「何を演じるか」の設定が重要なのは言うまでもない。それがなければ、只々オーディエンスに翻弄される人生になってしまう。

2014/05/10

歴史の文脈とイノベーション : (映画)モニュメンツ・メン(邦題:ミケラン ジ ェロプロジェクト)

シンガポールからの帰りの便の機内で、映画「モニュメンツ・メン(邦題:ミケランジェロプロジェクト)」を観ました。

リンク先のwikipediaには、
第二次世界大戦時にヒトラーによって重要な美術品や文化財が破壊される前に奪還を試みる連合軍の活躍が描かれる。 
と、内容が端的に説明されています。それも史実として、数百万点という膨大な数の絵画、彫刻その他の作品が救われたというのです。

数多くの偉大な芸術作品が、彼らによって破壊から守られたという事実は賞賛に値するものと思います。また全編を通して語られる「人命をかけてまで芸術作品を守る価値があるか」というテーマにも色々と考えさせられました。

一方、もしもこの大戦で、これら芸術作品の全てを消失してしまっていたとしたら、現在のアートシーンは一体どのようなものになっていたのだろうかという点が気になりました。

映画を見終わってまず思い出したのが、芸術起業論というアーティストの村上隆の著書です。家に帰ってパラパラめくってみますと、彼は芸術で評価される(高く売れる)といことについて「作品を通して世界の美術史に文脈をつくりあげること」と述べています。

つまり、芸術市場で本当の意味で評価される為には、世界における美術史の文脈をしっかりと理解していなくてはならないということです。

彼の主張を借りますと、もしナチスのこの行いが全うされていたとしたら、過去の文脈を脈々と引継いで来た現在のアートシーンそのものが、全く異なるものになっている可能性もあるわけです!

ちょっと思考が飛びますが、ナチスは「創造的破壊」を通じて美術史の文脈を書き換えることで、自国による芸術市場の新しい世界構築を狙っていたのでないでしょうか。なんて仮説も立てることができます。

それはそれで、斬新な芸術世界が構築されていたかもしれないと思うと刺激的ではあります。

しかしながら、ビジネスにおける創造的破壊は過去を否定することから始まります。

それは、取りも直さず偉大な過去があればこそ、その多くを否定することができ、更に一部を取り入れながら次世代へのイノベーションにつなげられるという事なのです。

そう考えると、やはり多くの芸術作品が残ったという事は大きな功績だったと考えるべきなのだろうなと思いました。

芸術に限らず、その分野の歴史を「過去からの文脈」として理解することは、次世代にイノベーションを起こすためのきっかけにもなりそう。

やはり学びは大事です。

2014/05/06

タクシー事情 in マレーシア

photo credit: thienzieyung via photopin cc (写真はイメージです)

マレーシア出張時の事ですが、とある地方の撮影場所から、クアラルンプールなどの中心地に帰る場合は、メーター無しのタクシーに乗らざるを得ない場合が多いのです。

メーター無しというのは文字通り料金メーターが付いていなくて、交渉で金額を決めるスタイルの乗り物です。「スタイル」というとアレですが、要は如何にボラれないようにするかどうかがポイントの非常に緊張感ある乗り物です。

ある程度の正規料金の感覚を持ち合わせていないと、完全にあちらさんの言値になってしまうので、交渉に際しては、最低限距離と時間帯などを考慮にいれておく必要があるでしょうね。

幾多の修羅場をくぐり抜けた私くらいのレベルになると(!!)、最近は、日本人以外のアジア人のふりをして交渉を始める手法を編み出しましたので、大体狙い通りの金額に落ち着けることができるようになりました。努力と経験の賜物ですが、それでも若干緊張します。

まぁ、ネットではこれをぼったくりタクシーと批判する向きもありますが、タクシードライバーと話をしてみると一概にそうとは言い切れない側面もあります。実は彼ら、一日分のレンタル料金をタクシー会社に払って車両を借りているのです。もちろん最低保証もなにもありませんから、如何に稼ぐかは自分の腕次第なんですね。

で、一日幾らなのよ、と聞いてみますと、そのドライバーは60リンギット(日本円約2000円)だと。安いじゃないかと思いますが、物価からしてもそんなものなのかなと、妙に納得したりしました。

そして、彼らも一所懸命なんだなと感心して優しい気持ちになりながら話を聞いていると、いきなりコーヒー関連のネットワークビジネスに誘われたりもします。サンプルあげるから一杯飲むか?と。「どこでだよ!」と急に不安になったりしますが、「時間がないんだ。頼むから先を急いでくれ」とその時は何とか振り切りました。

それはそれは油断できない乗り物です。


2014/05/05

全てはフェイクから始まる

デジタル写真のクオリティはもはやレタッチなくしては語れない時代です。

最近ではやり過ぎな感のあるレタッチに批判的な見方も出て来ています。特にファッションや広告の世界ではその傾向が高いようにも感じます。

確かに、モデルの体型や肌の原形を留めない、言うなれば現実には存在しない全く別のものにしてしまうような修正を施して、雑誌のファッションページや広告を作ってしてしまうのは、現代のモラル感でいえばやりすぎと批判されても仕方が無い側面があるかもしれません。そして、一見その批判は正当であるように見えます。

しかし、どこまでが適正で、どこまでがやりすぎなのか明確なルールは存在しませんし、個人的にはそのようなルールは誰かが決めるものでもないと考えています。何故なら、デジタル表現に関する技術の進歩をそもそも止める事はできないですし、進化と共に社会の見方も変わってくるからです。何かを可能にする技術が存在していれば、使わずにはいられないのが人間というものです。

なので、これは制作側のモラルを批判したところであまり意味は無く、私たち受けて側の課題として捉えるべきではないのかと考えています。

例えば、大変失礼な話かもしれませんが、ファッション広告上でレタッチを施して仕上げられたモデルを、流行の服を着せたマネキンみたいなものであると考えてみてはどうでしょうか?マネキンに文句を言う人はいませんよね。

現代の世界では、そのくらいの改変が当たり前のように行われているという現実を直視すべきです。

つまり、ファッション雑誌や広告に出ているモデル、有名人やある意味ハンバーガーの写真など、まずは「ある種のフェイク」である前提で捉えてみるのです。そして、その出来のレベルに対して善し悪しの判断をすればいいのです。

フェイクである前提の広告写真は、現実の表現では不可能であるような、理想の姿を提示してくれていると受け取るのか?それとも現実との乖離を認識することで批判的な見方をするのか。いずれにしてもそれらのギャップに対する受けて側の認識がとても大事になってきます。

全てをフェイクと捉える事から自分なりの真実を見極めることができるかどうか。デジタル表現時代に身につけるべきスキルと言えるのかもしれません。

個人的には、元の素材を活かしたナチュラルな表現技術に好感を持ちますけど、コンセプトによってはフェイクに振り切ったイメージもそれはそれで見応えがある時代であるとは思っています。

2014/05/04

0→1(ゼロイチ) と1→10 (イチジュウ)

「0から1にするのが得意な人と、1から10にするのが得意な人がいる」
ウチのマネジメント層のメンバーが、あるセミナーで聞いて来たという話の一端です。

前者は事業の立ち上げフェーズで力を発揮する人で、後者は立ち上がった事業を仕組み化しつつ更にスケールさせることに長けている人、と言い換えることができます。

これは確かにそう言えるなと思いました。私なんかは典型的なゼロイチタイプだといえます。そういったところにどうしようもない情熱を感じてしまうのはしかと自覚しています。

得意な分野にフォーカスして、ある種のスペシャリストのような働き方ができるとそれはそれでいいかもしれません。俺は立ち上げ屋、的なキャッチフレーズでも付けてみて。

しかし、どちらか得意な分野だけの仕事をしていれば良いということにならないのが現実です。実際の業務は両方のタイプが常々入り交じっています。

いわゆる事業が立ち上がった後(ゼロからイチになったとの判断は実は難しいですが)でも、事業の成長に伴って小さな「立ち上げ(プロジェクト)」が無数に発生することになります。例えば、関連するサービスをスタートさせたり、ウェブサイトへの新機能の追加などは規模の大小こそあれ「立ち上げ」と言えますよね。

ですから得意分野だからといって、立ち上げっぱなし、あるいは何かが立ち上がるのを待っている、では当たり前ですが、事業そのものが成り立ちません。事業の成長には両者の連続した噛み合いが必要不可欠です。それが継続したPDCAの運用につながっていくと思うのです。

従って、事業を成長させるという共通の目標をもつ組織の中にあっては、自分の長所を認識して磨き上げる事に精を出しつつも、互いの得意・不得意を理解し、補い合うことがとても重要となってきます。

そういう意味では、誰がさんのように、立ち上げという得意分野に邁進しているつもりになっていればいるほど、俺はやってる!と自己陶酔しがちになりがちですから、時たま周りの状況なども気を配り、我が身を振り返ってみるとよさそうですがどうでしょうか?

はい。その通りでございます!