2015/03/26

野党系にこそ何かある

ジャカルタでは、こちらで頑張っている多くの日本人の方々に会っています。

ネットベンチャーを中心に、中堅、大手広告代理店等の方々が中心です。

皆様には本当に良くしていただいて感謝しかない毎日です。

そんな皆さんには、何だか共通しているなと感じる部分があります。それは、良い意味でフリーな考え方、行動力を持っていらっしゃるというところ。

言い換えると、放っておいても自走して何とかしてしまうようなオーラを放っておられるのです。

勝手な想像ですが、日本本社の目の届かない海外現地でこそ、待ってましたとばかりに本領を発揮しそうな、そんなタイプです。

例えば、ベンチャーであれば成長段階において、外部から優秀と言われる人々が多くやってきてやがて普通の会社になっていくわけですが、そんな日本本社の中では、いい意味で野党系のマインドを持ち続けているような人です。

そんな人には「あの未知の国を何とかしてきてくれ」と多くの権限を委譲して、任せきった方が絶対に良いのです。あまり管理し過ぎないほうがいい。

当初考えた戦略通りに物事が進むなんてことはありませんしね。ましてやここは外国。

そんな時に、手詰まってしまって新たな一歩を踏み出せないようでは、いたずらに傷口を拡げてしまうだけになりかねません。

ちゃっちゃと方向転換出来るセンスってとても大事だと思います。

そんな人こそ、ゼロイチの海外展開の担当者には向いているのではないかと思うのです。

その腹の底に隠しているマグマの塊のような鬱憤を事業開拓にぶつけてみろよと。

ベンチャーマインドをもう一度!ってやつです。

何だか最後は脱線してしまいましたが、まぁ、そんな感じのイケてる方々が多いよねというお話でした。



2015/03/24

古典本系008:忘れられた日本人


著者は民族学者の宮本常一さん。

この本は、明治生まれの地方の農村に住む老人たちに、当時の生活状況を聞き歩いてまとめた内容が主体となっています。

現在の歴史学が記録をベースにしているとすれば、民俗学は記憶を土台にして歴史を捉えている分野だと思いました。

もちろん、民俗学も後世に残すために記録はしているのですが、それは、単に過去の文献にあたるだけでなく、実際に人々の記憶を掘り起こして書き留めているところに決定的な差があります。

そういう意味では、宮本さんが掘り起こした明治〜戦後期までのミクロな日本民族の足跡は非常に貴重なものだと思います。

以前読んだフェルナン・フローデルの歴史の捉え方にも通じる考え方です。歴史を時間軸だけでなく、水平(同時代の庶民の 暮らしの視点)にも展開していくことで、政治的なイベントの影響を市井の人々にまで落としこむことで見えてくる世界があります。

ともするとほとんど影響を受けていない、あるいは影響が出るまでに相当の時間がかかる地域や人々もあるわけで、そんなミクロの視点に切り込むことでその時代はなんだったのかと考えることができます。

この本では、主に明治初期から大正前期までを扱っていますが、明治前期の士族の乱から西南戦争に至る過程の西日本での農村部の人々の生活などはとても興味深いのです。

政治的なビッグイベントに少なからず影響されている社会と、静かに時が流れる現実的な生活空間とがモザイク的に折り重なっている。そんな情景が老人たちの声から目に浮かぶようでした。

私自身も幼少の頃は、いろいろな事情で福岡県の田舎で祖父母の手で育ったせいか、実際の情景とは異なるのですが、全編を通してなんとなく懐かしささえ感じてしまいました。

宮崎駿さんも、宮本さんに影響を受けた一人だと聞きます。いずれもう何冊か読んでみたいです。

因みに今は「種の起源(上)」と「ファウスト(下)」を読んでいます。この2冊は4冊分にカウントしますからね。ヘビーです。


初ジャカルタ

初めてのジャカルタに来て早くも4日目です。

インドネシアという意味では以前バリ島に旅行に行ったことがあるので、2回目ということになりますね。

体感値としては、シンガポールを除く他の東南アジア地域の中において経済発展のポテンシャルは群を抜いているのかな、いや抜きつつあるのかなとの印象です。(直感は大事)

空港からホテルに向かうハイウエイ沿いの建設状況等は他の地域でもよく観察していたりするのですが、ともかく盛んな印象です。

ショッピングモールとコンドミニアム一体型の新しいシティが一夜にしてあちこちに出来きてしまうかの如くです。

宿泊しているホテル近辺も新たな施設の建設が急ピッチで進められていて、隣接するモールに食事に行く途中などに、工事関係の車両や人々の出入りを頻繁に目にします。

そういった活況感は、各メディアでも盛んに取り上げられているので、シグナリング効果の影響も多分に受けているのは自覚していますので若干間引いておく必要はあるかもしれません。

それにこちらの方々に話を聞くと、"(経済発展が)くるくると言われ続けてもう何年になるのか"、とちょっと遠い目をされたりしますので、実体的にはもう少し時間がかかるのかもしれません。

残り3日間ありますので、もう少し深掘りしてきたいと思っています。

分かりずらいかもしれませんが、下記の写真はその建設現場の一つです。ホテルの部屋から撮りました。


*古典系読破プロジェクトでは、とうとう「種の起源」に手を伸ばし始めました。これ相当面白い本ですね。その影響で「ファウスト」は下巻に突入したものの遅々としてすすまない状況です。メフィストーフェレスに阻まれているのか!

2015/03/18

卒園式

今日は娘の卒園式でした。

社員の披露宴などでさえ涙無しには過ごせない私ですので、娘の卒園式なんてもう立つことさえ出来ないのではないかと自分では思っていました。

ええ、持って行きましたよ、分厚い「タオルハンカチ」を。こういう場合、どんなに滑らかな肌触りであろうとティッシュでは絶対ダメなんです。

ところが、実のところ割とあっさり終わってしまいました。涙を忘れたオヤジってのは全く可愛げがないですよね。

自分の中でも何か大事なものを何処かに置いてきてしまったような健忘感とでもいいましょうか、なんともいえない気分でしたね。健忘症とも言えますが。

で、何故かというとその原因は「撮影」でした。

当然指定業者のカメラマンさんも入っていて、ベストポジションは彼らが占有しています。

ですので、良いアングルを狙える残りのポジションは父兄間での争奪戦の様相を呈しており、なんとなく殺伐とした雰囲気を感じたものです。

また、用意された父兄席からも多くのカメラの放列が容赦ありません。

そんな雰囲気に呑まれてか、自分もしっかり撮らなきゃという意識が先行してしまい、結果として娘の成長をじっくり感じる余裕が無くなってしまったのです。

そんな環境では結果的に自分の撮影も儘なりませんでしたので、まさに、二兎を追う者は一兎も得ず状態でした。

考えてみれば、結局良い写真は後で買うことになるのでふから、撮影は業者さんにお任せすれば良いのですよね。

最近はわりと簡単に良い写真を撮ることができます。しかし、だからと言ってその瞬間をデジタルに記録しておいて後でじっくり見ればいいや、なんていうのは何となく味気ない考え方だななんて思いました。

その場にいるということは、もっと五感を働かせて感じるべきものを感じる事が大事なのかなと。

自分自身、記録よりも記憶を大切にする人間でありたいと、強く強く思いました。


2015/03/08

古典本系007:自負と偏見



永らく妻に勧められていた本。モームの世界10大小説にもランクインしているし、やっと手に取ることが出来ました。

これまでは恋愛小説はあまり好きではなかったということもありますが、読み切って見て感じたのは、まぁ面白いと言えば面白い。が、何が面白いか、と問われるとよく分からないという不思議な小説だったということです。

17世紀のイギリスを舞台にした貴族世界の中の「結婚」をめぐる”めくるめく”攻防、と言いましょうか、そんな貴族の結婚物語です。
タイトルの通り、プライドの高い紳士に対して主人公の女性が持っていた偏見が、徐々にその味方が変わってくる過程で双方の思いが・・・というストーリーが軸となっています。

構成的には、時系列通りに物語が淡々と進みます。しかし、ただ進行するというのではなく、数多く登場する人物を通しての他人への批評が中心に展開されます。
「あの方は◯◯よね」「私はそうは思わない。もっと◯◯よ」的な。。。
そんな感じです。

もちろん小説ですから、ある程度の起伏はあります。そんな中でも読みどころとしては、登場人物達が初めに抱く強烈な”偏見”がどのように変化していくのか、という点をあげておきたいと思います。

また、妻も言っていたことですが、すれ違いばかりの主人公の二人に「じれったい」と感じる場面は多かったですね。この「じれったさ」が、淡々としたストーリーにある種のスパイスを加えているなと思いました。

最後に、私のような凡庸な男性にはこの本の面白さの核心に近付く事は出来ないのではというのが、正直な感想です。





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さて、次は「忘れられた日本人」を読みつつも、ゲーテの「ファウスト」を読み始めています。いやー、かなり高尚な作品と敬遠していましたが、読んでみるとそんなことはなく、結構世俗的なテーマをちりばめながらの会話形式の構成はなかなか味わい深かそうです。
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2015/03/05

キャッチボールの成立

一昨日の晩遅く、シンガポールに着きました。

メンバーと共同生活している部屋に夜中の1時位に着いたら、皆、まだ起きていてくれてなんか嬉しかった。

人と人との信頼は、こういうちょっとしたことの蓄積も大事なんだよなと思います。

ところで、彼らと少し酒を飲みながら語り合っていて色々と感じることがありました。

私も含めてですが、組織の一員として海外展開のゼロイチに関与するというのは、限りなく起業に近くとてもエキサイティングな経験ではあるのですが、現実的には自分達だけではどうしようもないことに左右されてしまうこも多いものです。

例えば会社の突然の方針変更などは、よく言えば柔軟ですが、悪く言えば行き当たりばったりと捉えられたりもします。(頻度にもよるんですがね)

それらは、受け身であるという結局個々人のエクスキューズとしてしまうのか、または組織のあり方にも改善余地があるのかと捉えるかで、見えてくる風景も全然異なります。

自分からボールを取りに来いと言っておきながら、投げ返されたボールを我々がしっかり受け止めて投げ返さないとキャッチボールは成り立ちません。

ボールを取りに行くだけの一方通行では、物事は一向に前に進まないということです。

メンバーとは夢を語り合いつつも、現実の課題も日頃から議論しておくことを意識しておきたいです。

普段から、可能性のかる選択肢を互いに認識していれば、「あー、あのボールはそっちに投げられたのね」と、少なくとも予想する事が出来ます。

そんな状態はコミュニケーションの修正もまだ容易なのではないでしょうか。

さぁ、これから約一週間のマレーシア。
事業推進面のミッション遂行は勿論ですが、同行する新人のメンバーとがっつり語り合うという裏タスクもまた重要なのです。


2015/03/04

映画007〜008






前回のシンガポールからの帰国便では映画を二本観た。

007:八日目の蝉
以前家内と一緒に見て号泣した作品。

二度目に見てもやはりまた涙してしまった。

母親が子を思う形とは一つではないと考えさせられる。他人の遺伝子を持つ子供だとしても、我が子として育てるうちに強い思いが宿ってくるのだろうか。

自分の生い立ちにも重なるのか、親子、兄弟モノは感情移入が半端ではないようだ。

3回位泣けるところがあるが、このセリフが一番堪えた。

「お母さん、もう追いつけないよ」

008:tracks
三頭のラクダと一匹の犬と共にオーストラリアを横断した女性のトゥルーストーリー。

ナショナルジオグラフィック誌で特集されたそうな。

彼女は、そのナショナルジオグラフィック誌に旅のスポンサーを依頼する為に手紙を書いたのだが、その中の印象的な言葉をメモしておいた。

過酷な旅になると自覚している。また力不足だとも。でも、平凡な人間でもやりきれる事を証明したいのです」

ぐっと来た。ただし、こういう決断が出来た時点で非凡な人ではないと思った。

人は決断し、行動することで非凡から脱出することが出来る!

僕は旅という旅らしき行為をしたことがないから、いつかは自分と向き合える旅がしたい。(いやするぞ!)



2015/03/03

古典本系006: 歴史入門


以前読んだ、ナシーム・タレブのブラック・スワン[上]―不確実性とリスクの本質 で引用されていた歴史家、フェルナン・フローデルの本。


タレブをして「偉大な歴史家」と表現されていたので、まずは入りやすいものからということで手に取ってみました。

フローデルの代表作『物質文明・経済・資本主義』における歴史観を簡潔・明瞭に語り、歴史としての資本主義を独創的に意味付ける入門書との事です。

さて、この本は、歴史の見方、捉え方になんとなく変えてくれるきっかけを与えくれそうな気がしてきます。ええ、何となくですが。

ポイントとしては、著者は従来の歴史とは社会的出来事、特に政治的な物事を年代順に追ったいわゆる政治史と同義であると言っています。

しかし、現実には人々の間には常に物質的生活があり、様々な経済活動がその上に成り立っているのであり、そういった活動が歴史の流れに影響しないわけがないだろうと、まぁ、簡単にまとめてしまうとそのようなミクロな視点で膨大な歴史の扉を開けられてきたのだろうと理解しています。

確かにそうです。例えば、ある都市国家があったとして、そこにはゼロから国家が作られたのではなく、ある程度既に人の往来があった上に建設されるわけです。

では、何故そこにそもそも人の往来が始まったのか。都市や国家の成り立ちをそんなところから眺めると別の見方もできます。

例えば鎌倉幕府がいきなり1192年にできたと考えるのではなく、鎌倉という土地になぜ幕府が築かれるようになったのか、ということを地域と地域周辺の人々の暮らしまで縦横に深く広く見ていこうと、そういう感覚です。

しっかりとした歴史観を持たなければならないと言われますが、そういう意味では多くの場合それが政治史的な要素に偏っているのではと感じます。

しかし、それらは時代や権力者の都合によって歪んでしまっていたり、或いはいわゆる政治史的な歴史に影響を与えることができる人々が置かれている立場によって解釈も異なってくる可能性にも想像を膨らませる必要もありそうです。

そんな表面に出てきている一面的な方向からだけで、しっかりとした歴史観を持つことは難しいのかもしれません。

歴史にはもっとミクロを見つめる必要があるのではないのかな、と。

この本では、17世紀のヨーロッパを中心に話が展開されていますが、日本は一体どうだったのだろうかと学び直してみたいものです。

そんなところから、次の本では民俗学者、宮本常一の「忘れられた日本人」を手に取っています。並行して読んでいる「自負と偏見」ももうすぐクライマックス。


2015/03/01

散歩

渋谷からの鎌倉小町と、金曜の夜にちょいとばかり深酒をしたので、昨日の土曜日は使い物にならないいわゆる「木偶の坊な1日」を送ってしまいました。

まぁ、こんなことはこれまでかなり経験してきました。(威張れませんが)

今や、長年に渡っての反省と自己嫌悪を繰り返す過程を経て、最近やっと心のポジティブ転化を自然に任せるとこが出来るようになってきました。

自分で言うのも何ですが、もはや達人の域に達ってしていますね。

そして、その仕上げが今朝の散歩。

幸い自宅の周辺は山の麓ということもあり、起伏に富んでいて緑が多く、自然に触れながら歩くのは気持ちの良いものです。

気分一新というやつです。

見知らぬ人々との会話で盛り上がった深酒の記憶を、経験という血肉に変えて今日も頑張るとしますか。

さて、お風呂も湧いたようなので優雅に半身浴でもしてきます。