2015/06/29

古典系本012:「サリンジャー戦記」

先日、村上隆訳ではない「ライ麦畑でつかまえて」を読みましたが、その後、ネットで色々と他の方の書評を読んでいて、いろいろな感想というか幾つかの見方があるんだなと気づきました。

それは、私が感じた「少年〜青年が大人や社会にもつ不信感・反発みたいなものを表現した」という視点はどうやら一側面に過ぎないという点。

大方はこのいわゆる「中二病」的な視点での読み方が多いのですが、もっと掘り下げると全然異なった側面が見えてきます。

で、いずれ村上訳を読んでからと思っていて、デスクの上に永らく積読状態であったこの「サリンジャー戦記」をふと読んでみようと思い立ったのです。

こちらは村上隆さんが翻訳した「キャッチャーインザライ」についてその魅力などを語りつくしている本です。

内容については読んでもらうしかないのですが、ともかく村上さんのこの本に対する捉え方の深さと独自性の半端なさには脱帽です。

原作者(サリンジャー)の考えをあれこれ想像(いや分析といった方が良いかも知れませんが)しているその目線が、この物語を通してかなり深いレベルで原作者の経験に疑似体験しているというか、原作者が村上さんの言葉を通して語っているかのごとく、超リアルに聞こえてきました。

実際に小説家である人の見方というのもあるのでしょうけど、どこからその感性はくるのか、或いは読み取る技術みたいなものがあるのかとても興味が湧きました。

本の読み方というのは、もっと自分が感じたことを大切にしていいんだ、重視すべきなんだと今更ながら学びました。

そういう意味で、若いうちに本をたくさん読んでおけというのは確かにその通りです。

しかし、今にして改めて思うのは、私のように歳を重ねてからの読書は、若い人々に比べてより意識して感覚を研ぎ澄ます必要があるということです。

でないと、いつの間にか多くの感覚を社会の一般常識(と言われているもの)・価値観に依存するつまらない大人になってしまっているのかもしれません。

それはちょっとまずいですよね。

自分の中で勝手に狭い常識をこしらえていないか、常に問い続ける姿勢が必要だなぁということでしょうか。

この本が世界で読まれ続けているのが何となく理解でしました。









2015/06/24

ロバート・デ・ニーロのメッセージ

ロバート・デ・ニーロさんのニューヨーク大学芸術学部ディッシュ・スクール・オブ・アーツの卒業式でのスピーチが話題になっている。


「理性、倫理、常識。芸術学部で? 嘘だろ?」ロバート・デ・ニーロがクリエーターを志す若者たちへメッセージ(logme)


私も何度も読み返しました。特に、

「芸術に関して言えば、情熱は常に常識に打ち勝つべきだ。君たちはただ夢を追っているんじゃない。自分の運命をつかもうとしているのだ」

の一文。

なんとなく予定調和こそ善といった雰囲気の昨今。「情熱は常に常識に打ち勝つべきだ」というこの言葉にはこの胸に楔を打ち込まれたかのごとくに響いてきた。

決してアートをやっているわけではないが、ここで言っている”芸術”は自分なりの言葉に置き換えることができる。

常に常識を疑え!ってやつだ。イノベーティブな発想を嫌って現状に甘んじていてはいけない。

まさに、イノベーションそのものの発想ではないだろうか。



2015/06/22

飲みニュケーション徒然

私は飲みニュケーションを重視しているわけですが、先日も普段はあまり一緒に行かないメンバー達(それも女性ばかり4人に囲まれて!)と渋谷のとある牛タン屋にいってきました。

中でも特にパートタイムで働いてくれている面々と盃を酌み交わすのは初めだったので色々と楽しみにしていました。

始まってみれば、話題は「生い立ち」「掛け持ちの仕事のこと」といった個人的な話から、「ジェンダーイシュー」「ベジタリアンについて」など社会的なところまで多岐に渡り最初から最後まで大盛り上がりでした。

彼女達の人生における意外なストーリが炸裂で、思わずグラス片手に固まってしまうことも幾度かあったくらいです(笑 

アルコールが入るにつれ互いの生い立ちとか普段何を考えているのかとか、自然にしかも積極的に話し合うことができて互いの理解に少しは前進があったんじゃないかと思っています。

たかが一晩の酒の席かもしれませんが、これまで見えてこなかった一面を知ることができて、私的にはさらに彼女たちへの興味・関心が深まりました。

相手へ興味・関心を持つことってコミュニケーションの基本だと思うので、そういう意味でもまずは相手を知る機会を持てる飲み二ュニケーションはこれからも大事にしたいなと思います。

まだまだ飲みニュケーションは続きますよ〜


2015/06/17

#ストックフォトコンテンツ

現在のマイクロストックフォト系のコンテンツの傾向に関しては色々と複雑な思いを持っています。

ポイントはいくつかあるのですが、その中でもっとも気になっているのは「これは売れる」となるとその分野のコンテンツが集中的に増える傾向があるというところ。

現在のマイクロストックフォトのように、コンテンツ制作をコントリビューターに依存しているビジネスモデルでは、彼らのコンテンツ一点あたりの収益を最大化させたい動機が働くという点でこれは当然の流れと言えます。

この不特定多数の才能を世に出すことの優劣の差がサービス力の差につながっているのが現実ですし、そもそも購入者ニーズに集中的にスピーディーに答えることができるという点では圧倒的な強みであると思います。

しかし、これは反面同じようなテイストのいわゆる類似的なイメージの量産にも繋がります。

購入者のニーズは気まぐれなものです。例えば人物写真ジャンルですが、購入した同じモデルの写真が他社と被ってしまうとか、どのサイトを探しても同じようなテーマ、構図の写真しか見つからなかったりというケースも多くなってきているようです。

そんなユーザー体験が増えてくると、これまで「使いやすい」「ニーズを満たしている」として重宝されていた利点が、一転ネガティブな見方に変わってしまうかもというリスクを個人的には感じています。

この点を弱みになり得る、かつ解決すべき課題の一つとしてしっかり認識しておく必要があると考えています。

そして、ネットの発達により情報の流通スピードが以前にも増して高速化・増大化していて、メディアの数もうなぎ登りに増えている環境の中では、同時にビジュアル素材の消費量がかつてないレベルに到達しています。

その結果、この「飽きられてしまうかもという飽和点」の位置がどんどん低くなっているという考え方が成り立つのではないかと思うのです。

事実、そんな状況に対応するかの如く、欧米では”写真”にしっかり向き合ったクオリティを追求したブティク型や、スマホで撮影したコンテンツ(=様々な加工力も魅力)をベースにした更にオープンなストックフォトサイト(もはやストックフォトと呼んで良いのかもはやわかりませんが)が生まれてきています。

彼らの特徴は既存のストックフォトプレイヤーに対して「つまらないイメージとはおさらば」といった感じで、コンテンツの方向性に違いを打ち出そうとしているところです。

それらの取り組みは既存大手を辞めた人が立ち上げたり、クリエイティブ大好きな起業家が全く新たな発想で挑んでいたりしていて、ストックフォト市場に於ける新たなイノベーションの始まりを個人的には感じています。

もはやこの分野は、インターネットが好きとかいうだけのレベルではなく(それは当たり前)、コンテンツに対してどのような思想を持っているのか、といった領域での勝負になってきているのかもしれません。

そういう訳で、日々行動しながらも更にコンテンツに対する思考を深め、自分自身もどんどん変化していかなくてはならないなと痛感している日々です。

自己否定を恐れてはイノベーションは起こせません!

このカテゴリは、あくまでも私個人の見方であり、所属する会社を代表するものではありません

2015/06/11

塗り絵の枠をはみ出してみる。

娘は塗り絵が好きなようです。

最近は、もともと描かれている枠の中ではりますが、ただ色を塗るという行為から彼女なりに工夫がみられるようになりました。

例えば動物であれば、本体のメインとは異なる色で縁を彩ったり、ハートなどの様々な模様を配置したり、果ては何か別なパーツを新しく付け加えるといった感じです。

そういう「オリジナル」っぽい部分を見つけた時には積極的に褒めるようにしています。

塗り絵というものを改めて見ていると、やりようによってはある程度自由に選択できる余地があるんですよね。枠があるだけで、「こうやって塗れ!」と指示があるわけでもありませんからね。

とはいえ、はじめに「しっかり塗る」という基本があったからこそ枠を外すという行為が活きてくるのかなとも考えたりします。

まぁ私レベルの凡人の域で、規格外的な感覚が云々と言っても始まりませんが、「枠をはみ出す」「はみ出してみる」ことに何がしかの価値があるという考え方はビジネスの世界でもガンガン言われていることです。

しかし、逆説的ですが「枠をはみださない」ことにも価値はあるよなと。ただ、それはその「枠」自体を大きくしていくことが前提となります。容易にははみだせない位の枠を自分の中に持ち続けるということです。

小さい枠をはみ出る生き方と、枠を大きくし続ける生き方

なんとなくですが、もともとの小さい枠しか持たない私のような凡人には、後者を選択すべきな気がしています。

ただそれも、今持っている枠を意識的にはみ出す行動をし続けることで得ることができるのだと思いますけど。

娘の塗り絵のやり方を見ていてそんなことを考えていました。

2015/06/08

古典系本011:「ファウスト」の一節

読書をしていると、ある一節に甚く共感する場面があります。

自分の置かれているその時の状態や過去に経験したことが、くすぶっていた焚火が小枝なんかの投入がきっかけで再び舞い上がってくる、そんな感覚です。

今、長い時間をかけて読んでいる「ファウスト」にもそんな一節が所々にあります。この小説はともかく長いわけですが、ストーリーの内容というよりも、そういった数々のぐっとくる一節の表現に魅力があるのだと個人的には感じています。

下巻の後半に突入して、やっとそんな感想を持ち始めているのですから、私の読み手としてのレベルが見えてしまうというものですが、まぁそれでもいいかともはや達観して読み進めています。。。

そんなこんなで、最近気になった一節はこれです。

・・・
禍福の吹き回しにもてあそばれて、
禍にも服にも、平静な心で立ち向かうことができず、
よるとさわると啀み合って、てんやわんやの大騒ぎ。
喜びにつけ悲しみにつけ、同じ調子で泣いたり笑ったりさ。
・・・

これって、なんだか何をやっても上手くいかない集団(組織や家族なんかも含めて)の典型例のようです。

内輪で啀み合うということは、人間社会においては昔からありがちなことなのだろうけど、同様にその影響による害も大きいよ、と言われてきていると思います。自分の周りだけよければそれで良しという考えでは結果としてその害が自分に跳ね返ってくるのです。

この一節に続く話もそういった結末です。

そのような状態になってしまうのは、大概において人々の勝手な思い込みがきっかけになっていて、そこに誤解が生じ、果ては嫉妬や被害者意識などが拡散されやすい環境そのものに原因があるのではないかと思います。

そこまでいってしまうと、一旦解体でもしない限りもはや誰にも収拾できなくなってしまいます。

ですから、そういった環境そのものをしっかり整えるということに常に多くの注意を払う必要があるのかなと思います。それにはまず根底に相互の信頼関係のあるなし(強弱)がとても重要だなと。

じゃないと、何をどう懸命に伝えてみたところで、いつまでたってもまるっきり異なる意味でしか伝わらないので、全てが徒労に終わってしまいます。

昔も今も、ある程度の相互信頼の上に立つ基本的なコミュニケーションの重要さを痛感します。

あるいは、何かを成し得ようとする組織であれば、そもそも互いを認め合おうとする基本姿勢のある人々で集まろうよということなのかもしれません。

この作品は、他にもついつい考えてしまう一節が数多く散りばめられています。

繰り返しになりますが、この作品には個人的にはストーリーとしての面白さはなかなか感じることができませんでした。戯曲というあまり慣れない形式にも理由があるのかもしれません。

しかし根気よく読み進めていくうちに、出会う数々の一節についてちょっと立ち止まって考えてみる、そんな読み方もあるんだなと新たな発見があったようでちょっといい感じです。

年齢を重ねた後に古典を読むということは、そういうことなのかもしれません。


2015/06/05

飲みニュケーションにおける去り際

基本、飲みニュケーションを大切にしています。

なので後輩や部下が飲みたそうにしていると察知したときはなるべく誘うようにしています。

ただ、私は勢いがつくとついつい先陣を切って飲みすぎてしまう傾向にありますので、結局自分が飲みたいのか!ということなのでしょうが、ここは妻にも指摘されることではあります。

「あなたは、自分が最大限楽しんでしまうのがいけないの!部下の方々と飲むときは、程よいところで、”後はこれで楽しんでくれ”とお金だけ置いて、すっと消えるのがいいの!」

とのこと。そんな上司を彼女は慕っていんだと、いつだったかそんな昔話を聞かせてくれました。

彼女と長年付き合ってきた結果、(内容如何にかかわらず)妻の話を傾聴するこはかなり重要なことなのだとやっと理解し始めている今日この頃の私としては、この話は心に突き刺さる説法のようなものでした。

おそらくそんなことが私の心か頭かどこかに残っていたのでしょう。先日のとある飲みの席で、ついに、いや自然とできてしまったのです。

われながら「達成感」が半端なかったです。

ええ、帰宅後すぐに妻に報告しまして、

「あら、よかったわね」

とお褒めの言葉を頂きました。この御言葉を心に刻んで、これからも精進してゆこうと誓いました。

2015/06/03

「私にとっての転職とは」

私は、ストックフォトといって、広告やウェブサイト向けの写真・イラスト・動画素材のマーケットプレイスを運営している会社に勤めています。

中でも、素材そのものである「コンテンツ」の担当であり、日本中いや世界中から良質な素材を集めてくる業務を中心に担っています。

今の会社に入社する前も、国内ではいち早くストックフォトのウェブ販売に取り組んだ会社の立ち上げに参加し、サイト運営と営業を担当しました。そして、その後自社でコンテンツを制作する会社を起業して7期代表を務めました。そんなわけで、この業界に携わり既に12-3年が経とうとしています。

今49歳なので、おそらくこれからもこの業界に関わっていくんだろうなと漠然と考えていますが、まぁこればっかりは何が起こるかわかりません。

なにせ、それ以前は証券会社や外資系金融、独立系商社(それも水産!)モバイル系スタートアップなどを転々としていましたからね。結局「会社」という枠で考えれば今の会社で起業含めて7社目(!)です。業種的には3業種(金融・商社・ネット)となります。

こんな飽きっぽい性格の男がなぜストックフォト関連の仕事は長く続くのか、と考えたときにやはり「ビジュアルが好き」という一点に尽きるなと最近改めて認識しているのです。

それも「作る」方により近いポジションを取ることが私のモチベーションの源泉のような気がしています。

私にとってのその魅力はもっと深いところにあるのですが、まぁそれはいずれちゃんと整理しようと思います。

この業界に入ったきっかけは偶然でしたが、そういう意味では幸運に恵まれたなとしみじみ感じているところです。

こうやって振り返ってみると、私にとっての転職や職業を変えるという選択は、自分にフィットする組織を探し求めるということではなく、生涯付き合っていける(いけそうな)仕事とは何かを見つけるためだったと言えます。

私の場合は「誰とやるかより何をやるか」だったのかもしれません。

その為には組織カルチャーやその他に少々難があっても、自分のやりたい仕事がここそこには存在しているか、に主眼を置くと色々と見える風景も変わってくるのかなと思いますね。

それがなければとっとと転職してしまうのも勿論一つの手段です。

直近では身の周りでもそんなこと(転職)を色々と考えている知人も多いようです。

こんな私の人生でも一つの参考になればいいな。