東南アジアをめまぐるしく動き回っている。
それは僕なんかよりも遥かに凄い人はいるとは思うけど、それなりには移動の多い方だと思う。
そんな慌ただしい中では、行き先の土地や人々をじっくりと観察したりはできないわけだけど、ちょっと違った視点で周りの風景を見ている自分がいることがある。
例えば、タクシーでの移動。
午前中のアポイントが終わり、一旦ホテルに戻ってすぐさまチェックアウトしてローカルの空港に向かう、なんてシチュエーションだと、タクシーに乗り込んだ瞬間はなんとも言えない安堵感に包まれる。
そんな心情で流れゆく景色を眺めていると、例えば豪邸の家が並ぶ通りに出たりする。凄いな、あんな家に住んでみたいな、と思うと同時に、豪邸の数々が全く意味を持たないもののようにも見えてくる。
最近は「所有する」という行為に対してなんとなく懐疑的になって来ているのだ。
それはやはり移動する生活という現在のこの状態が影響してると思う。
移動する生活を送っていると、とにかく持ち物がシンプルになってくる。いや、シンプルにせざるを得ないのだ。パッキングにあれこれと時間や気を使うなんて些事は極力避けなければならない。
自分で洗濯しやすい服や、細々としたものをひとまとめにできる入れ物など、極力持ち物をミニマムにするよう心がけている。
で豪邸である。豪邸こそとてつもなく邪魔で、全くの無意味な存在ではないのか!あんな家をどこかに所有していたら、必然的にそこが生きる基盤となってしまうだろう。それは何となくだかが視野や行動を縮めてしまうことになるのではないか?と思う。
ネットの普及はある程度世界を繋ぐが、それはリアルな体験や経験と補完関係を築く事で更に威力を発揮するものになる思う。それは今この仕事をしていて本当に実感しているのだ。ネットで広まっている情報が全て正しいとは限らないし、やはり自分自身で確かめる事が必要だと思う。
だから、ネット時代こそ移動し、様々な人や現実に触れ、知覚する、認識する、という行為がむしろ重要になってくる。
そんな時代に強いのは直ぐに動ける「ミニマムな人間」である。多くを抱えていては動きが取れなり。そうミニマリストが理想型かもしれない。単なるミニマリストではなく、「移動のし易さを目的とするミニマリスト」だ。
”持ち家はありえんな。狩猟民族のような家族を目指すかな”なんてタクシーの中で考えていた。
ふと目を開けてタクシーの窓に目をやると、外の景色はいつの間にか閑素な豪邸街からハイウェイに移っていた。
「そんなの、ありえねーだろ」という妻の声が聞こえる気がした。