2012/06/30

テレビについて



photo credit: *Seth via photo pin cc

夜遅く帰宅する。着替える。顔洗う。NAB(ノンアルコールビール)をプシュッと空ける。そして何気なくテレビの電源を入れる。

そんな時間に放送している番組に引き込まれることは稀だ。およそ数十分後、24時を回ったくらいだろうか。見ていた番組が一区切りする。ふと、あれ?今何見ていたんだっけ?と我に返る。

確かに疲れて帰ってきたばかりだし、ソファーに身を沈めてぼっとしたくなる時もある。しかし、たとえほんの数十分かもしれないけど、そんな時間を何年も積み重ねていってしまうのはとっても危険だなと思う。意味もなく、くだらない番組を見ている時間って、結局自分の大切な様々なモノを差し出してしまっているわけだし。

因に、つまらない番組を見ない様にする為に、我が家ではテレビそのものに『コットンのカバー』をかぶせるという対策をとっている。これってウェブサイトにおけるユーザビリティ向上の施策と逆の対策で、敢えて一手間かかるようにすることで、クリック(電源を入れる)という行為から遠ざからせる効果を狙ったもの。今のところ目的はそれなりに達成できている。更に普段はコンセントも外しているので実際は二手間かかっているので、節電にもなっておすすめです。

・・・かといってテレビの無い生活には踏み切れていない。そこは思考停止中・・・

2012/06/16

(再読)急に売れ始めるにはワケがある






「ティピング・ポイント」という言葉で有名な本。昨晩、本棚から何気なくピックアップして、パラパラとめくって見ました。線を引いたり、チェックしたところを振返る感じです。こういった「何気ない行為」には「紙の本」が向いているかもしれないと思います。電子書籍だと「意識して検索」する必要がありますからね。

それは、ともかく本書。「売る」「広める」「強化する」などといった何かしらの影響力を高める為にはどうしたら良いか?へのヒント満載です。

「何らかの感染現象現象において、全てが一気に変化する劇的な瞬間を、本書ではティピング・ポイントと呼んでいる」~本書より。
そのティツピング・ポイントを迎えるための3つの法則がこの本の最も重要なポイント。

  • 少数の法則
  • 粘りの要素
  • 背景の力


なぜ重要なのかという部分に繋がる豊富な事例も参考にして、しっかり抑えておきたいです。

それにしても、いくら仕掛けがよかろうと、結局はトライ&エラーを繰り返すことで目指す何かは実現できます。ティピング・ポイントを迎えられるかどうかも、最終的には「行為の継続」、つまり「やり続ける事」が重要なんだなと再確認させられました。

2012/06/15

サッカーという代理戦争


photo credit: Hamed Saber via photo pin cc

ユーロ2012の真っ只中のヨーロッパ。老若男女さぞかし盛り上がっていることでしょう。

私はと言えば、先日のロンドン出張でチャンピオンズリーグを本場で目の当たりにしてからというもの、急速にヨーロッパサッカーが気になり出した、いわばぽっと出でございます。これから嵌るかもしれませんし、このままフェードアウトしてしまうかもしれません。

しかしながら、今ここに、新たにヨーロッパサッカーファンが生まれそうなめでたい状況などお構いなく、彼の地では毎日毎日熱戦が繰り広げられていて、ヨーロッパ各国の皆さんのボルテージは常時レッドゾーンに突っこまされているご様子。特に、先日のロシアVSポーランド戦。ファン同士の場外乱闘は凄まじかったですね。ガタイのいい短髪の男同士のどつき合いは、テレビの画面を通して恐怖がずしりと伝わって来て、リアルな衝撃を首筋のあたりに覚えたのであります。何でも17世紀初頭のロシア・ポーランド戦争以来の因縁みたいな話もちらほら聞こえてきて、どれだけの年月根に持っているんだよ、と試合よりもそちらの方に気を取られてしまいました。  

しかし、ヨーロッパでは、陸続きの国同士が争ってきた時代が永く続き、僕ら島国の日本人にはなかなか肌で感じる事ができない緊迫した何かが、彼らの血の中に脈々と続いているのかもしれません。そう考えると、サッカーの歴史はそのままヨーロッパの争いの歴史とだぶらせても無理な話ではないです。

それにしても、サッカー以外にこんなにもナショナリズムを剥き出しにして応援するスポーツが他にありますか?少なくとも私は知りません。野球?なんだか子供のようなものですね。体が触れる激しさという点では、ラグビー?それもフーリガンを生む程の話はあまり聞きません。世界的普及度からみてもサッカー以外に思いつかないのが現状です。  

ロンドン滞在中には、EUでの首脳会議を中断してまで、プレミアリーグの決勝戦を首脳達が観戦していた様子が報道されていました。特にドイツとイギリスの両トップが仲良くTVに釘付けになっている写真は印象的でした。この時ばかりはオバマさんも後方で遠慮がちにしていました。恐らくギリシャとか深刻な問題を協議していたでしょうにw そんな話よりもサッカーの方が優先度が上昇した瞬間でした。

しかし、サッカーって実は人間の『争う本能』のガス抜き効果みたいなものがあって、ファン同士のいざこざはあるものの、もっと大きな意味では、国々の平和的均衡に貢献している重要な役割を担っていると考えられます。まさに代理戦争であり、形を変えた疑似的な国取り合戦なのでしょうねぇ。

面白いのは、当の代表選手達は普段敵国のクラブチームでプレーして稼いでいたりすること。「フォアザチーム」とか言ってね。勿論、それはそれ、と選手自身もファンも当然の事と受け入れています。贔屓のチームに敵国の代表が加入して活躍してくれれば、惜しみなく賞賛を送ります。だから本物の戦争には発展しえない仕組みになっているのかもしれませんね。

実際にマリウシュ・ヨプのような選手もいる訳で。 

これからは戦う国同士の歴史的背景なんかも頭にいれて観戦するのもいいなぁ。サッカーにはプレーだけではない奥深いものを感じます。面白くなってきましたよ!

2012/06/02

子供達と親達の本能




今日は、会社のメンバーの3家族総勢12人で由比ケ浜のビーチで遊びました。

奥様方が作ってくれたお弁当を食べ、あ、勿論シェアさせてもらいました。おいしかったなぁ。そして、プレゼント交換や、砂遊びなどを中心に彼らを大解放しました。男の子達はもちのろんで水際で大はしゃぎ。

大人同士のコミュニケーション、というよりは子供達が如何に楽しめるか、って方向に私達のマインドも自然と同調していきました。こうやって職場を離れればやはり親同士の集まりですからね。会社でのポジションとかほんと関係無くなってしまうものです。

ウチの子も、持ち前の半端ないシャイさを発揮し、最初は皆となかなか一緒に遊べませんでした。しかし、子供達ってほんとすごいですね。それぞれ初対面だったのですが、最後の方は、「君たち同じ幼稚園かよ」ってくらい普通にお友達になっていましたよ。
子供達は子供達、親達は親達。それぞれの本能が遺憾なく発揮された集いとなりました!

今日の集まりの当初の目的は逗子の花火大会見物でした。しかし、夕方には子供達も疲れてしまったこともあり、鎌倉の回転寿しを食べて解散となってしまったのは心残りだったなぁ。

皆を鎌倉駅で見送った後、我が家は再度ビーチに向かってお散歩しました。この時期の海岸近くの夜道はとても気持ちのいいもの。家族3人で手をつないで歌いながら歩きました。すると、逗子方面の夜空に大きな花火が「ドーン」と打上ったのです。それは、まん丸ないわゆる牡丹型と呼ばれる種類だったように思います。娘が指を指して「うぁー」と歓声をあげた瞬間、他の子供達の顔が浮かんでちょっぴり切なくなったのでした。ぐすん。

今度は山に行こうぜ!

芸術家のマーケティング感性



photo credit: DrPantzo via photo pin cc

昔のパリには、貧乏芸術家が集まるカフェに、ブルジョワ階級の金持ち達も競って集っていたそうですね。芸術家は絵を描いたり、物を語ったり、思い思いに過ごしていて、ブルジョワ達はそういった彼らを面白がって眺めていたそうです。

ブルジョワ(ブルジョワジー)という言葉の本来の意味はおいておいて、ここでは「金持ち階級」、という意味で使うことにします。

その空間は、互いに持っていないものを交換することで成り立っていました。ブルジョワ達は自分が経験しえない未知の経験をしている者達と接する事で、刺激を得、知見を拡げ、様々な欲求を満たしたのです。そして芸術家は芸術を続けていく為の将来の糧(お金やネットワーク)を得ていました。

金持ちが芸術家を育てるとか良くいわれる事がありますが、それは投資とか金銭的な側面だけではなく、こういった人間の本質的な欲求を埋めてもらえる関係の存在が根本的にあるということでしょう。

「わしは、これまで地位や金ばかり追いかけてきたが、本当はこんなどうしようもない事をもっとやりたかったのじゃ。この絵はそれを表現しとる。ここに、やっと手に入れたぞ」

と、カフェで買った絵を持ち帰った上品(そうな)紳士が、グラスを片手に彼の自室でその絵画を眺めながら、興奮気味につぶやく声が聞こえてきそうです。


だとすると、現在の芸術家達が、奇異に映るライフスタイルや発言、そして一見意味不明な作品づくりを追求している姿は、世界に数多くいる上品(そうな)金持ちの紳士・淑女達の「面白い」あるいは「羨望」といった様々な感情のニーズに答えるという観点から、相当『戦略的』であるわけですね。

一方、現在のソーシャル的なネット活用の普及は、自分たちの活動などを世界に知らしめる手段としては有効ですが、ある意味全てが「あー、それはだれそれが既にやってるよね」と、瞬時に陳腐になってしまう世の中でもあります。また、監視社会の強化で、文化や価値観の違い、モラルなどがある種の幅の中に収まってしまう懸念も考えられます。こういった風潮が、奇特な芸術家や、そんなスタイルを面白いと思う破天荒で人間味のある起業家が生まれにくい環境につながってしまっては、人類の大損失だなと思います。まぁ、そんな事気にかけない人々は沢山いるでしょうけどね。こんな心配をするなんて、大体僕自身が小さいんだよなぁ。あー嫌だね。

村上隆氏は、「芸術で評価されるのは『観念や概念』の部分」と言っています。それは芸術だけに限る話ではないと思います。ビジネスにしろ、何にしろ、新しい概念や観念を生み出す為には、周囲に迎合しようとする世の流れには、意識して避けてやるぞ、位でいる方が丁度良いのかもしれないな、と最近考えたりしています。うまく言えないけど。

ともかく、冒頭の、カフェにたむろする芸術家達の金持ちの紳士・淑女のハートをわしづかみにする、軽い言葉で言ってしまえば、「マーケティング感性」には学ぶべき点は多そうです。

そんな芸術家の生き様を書いた本がどこかにないかなぁ。