2012/09/29

サーフボードデザインと境界線

そして、今日は娘とお絵描き会。

彼女は絵本のキャラクターを、僕はサーフボードのデザインを描きました。

最近は、国々の動きも感じながら、はっきりとした線ではない「曖昧な境界」というものがが気になっていて、サーフボードのデザインもこんな感じににも反映できたらいいなぁと空想し考えながら描きました。色の配色パターンだけ事前に決めて、境目の曖昧さは偶然の結果をそのまま尊重する、みたいな。それぞれの色がにじみ合っている部分は「互いの尊重」というコンセプトです。この水彩のようなボードへのペイント水彩だからが可能なのか、いつか相談してみたいです。





南西うねりは由比ケ浜にヒットせず


photo credit: Phil Gibbs via photopin cc

台風17号が北上しています。

サーフィンを趣味にしている者は、台風の接近にワクワクします。

台風のウネリから発生する波は高く、しかもパワーがあるのでいつもよりもサーフィンを楽しむ事ができるからです。特に鎌倉エリアのサーファー達にとってはいつも小波で我慢しているから尚更ですね。あ、因に僕は小波専門ですからどちらかというと大型台風の接近は「緊張」する派です。

それでも、そんな僕でさえSNSなどで共有された台風情報を目にすると、ついつい「いいね!」やリツイートして皆にも喜んでもらおうと思います。しかし、一方では同時に進路にあたる地域で生活している人々の事を考える時があります。台風が大きければ大きい程、予想される災害も比例することでしょう。ですから、「いやいや、喜んではいられないぞ」といつも自分を戒めて、拡散の行動を控える様にしています。その位しかできませんがね。

良く思うのですが、サーフィンというスポーツは非常に個人的で内面的な遊びです。色々な見方があるでしょうが、僕はそう思います。「個人的」というのは、波の斜面を滑っているときは結局の所自分と波だけの空間でしかありません。まさに波(自然)と一体になるその感覚が楽しいのです。

そして、その素晴らしかった空間も、最後は何事も無かったように跡形もなく消え去ってしまいます。これよく考えると不思議なんですよね。さっきまで確かにそこにあったパラダイスな空間が徐々に消え失せてしまうんです。「内面的」というのはそこからです。僕らはその無くなってしまう事がわかりきっている何ものか(実際は波なんだけど)に向かって再びパドリングして沖に向かいます。サーフィンとは結局のところその繰り返しでしかありません。そんなサーファーを見ていると、さながら終わりのない問いの答えを探しもとめている哲学者達のように見えるときがあります。

ね、サーフィンて意外に内面的でしょ?知的でしょ?(ま、殆どの時間は何も考えていないのかもしれませんが・・・)

何はともあれ、非常に個人的なことで満足できることであるならば、台風がきても殊更騒がなくてもいいのかな。自分や仲間内で共有できれば、それで良いのかな、という感覚です。

台風17号の南西うねりは、今の所我がホームポイントにはヒットしていません。先ほどすれ違ったボードを抱えたサーファーに聞いたら、七里は潮が引いてきたら良くなりそう。とのことでした。

予定もあって他のポイントまで足を運ぶ事ができませんが、その引き換えにこの文章を書く時間が出来たのでした。それはそれで有意義です。

とりあえず、早起きして良かったと思う土曜日の朝。

そういえばこの本に出てくる「ハナレイ・ベイ」という短編作品は、サーファーなら一度は読まれてみても良いかもしれませんね。




2012/09/28

多様なパイプ作り




米国の前大統領は、世界でも未だにその存在感は光り輝く彗星の様に強烈です。

クリントン・グローバル・イニシアティブ(CGI)という団体を設立し精力的に活動しています。(当サイトのabout us から抜粋:ビル·クリントン大統領によって2005年に設立され、CGIは世界で最も緊急の課題への解決策を作り出すグローバルリーダーのコミュニティを開催しています)


つい先日も反米に傾きつつあるアラブの超大国エジプトのモルシ大統領が、この団体のイベントに出席し英語でスピーチをしました。報道によるとこれは出席している多くの米国人に親密さをアピールすることに効果をもたらしたようです。(この大統領は普段は英語を使わないそうですね)先の国連では西欧諸国を強烈に非難する演説をしたモルシ大統領ですが、彼らにとっても表向きは米国と対立しているものの、関係維持の為にも別のルートとしてCGIを利用しているものと思われます。この組織以外にもパイプはありそうですよね。そういう連想をさせる米国の懐の深さは底知れないです。

この団体設立の真の背景とか気になるところですが、今日書きたいと思った事はそういったことではなく、このような活動が米国の外交ルートの多様化につながっているのは間違いという点です。時の政権がどういう方針であれ、あらゆる状況毎に対応できる組織が常に存在していて、各国、各勢力とのパイプを切らさないような活動を脈々と行っているのだと、このCGIなどの存在が裏付けてくれます。

大事なのは、平時においては、無駄な組織/活動だと思えてしまうものでも、あらゆるシナリオに沿って、万が一の非常時に備えてしっかりと準備しておく事ができるかどうか、なのですね。そしてそういった活動のできる"余裕"の確保が何はともあれ重要です。

翻って日本はどうなのでしょう。私が既存の報道から得ている情報だけを元に考察するとすれば、この国の外交には多様性が足りない気がして仕方がありません。パイプも細いし、何より長期的な継続性がなさそう。政権というか政治における主流派が足の引っ張り合いでコロコロ変わってしまうので、そもそも継続できる方針を持てない状況にないのではと推察します。最近の中国などは、実は色々と話をしたいのに日本側に窓口がなくて困っている印象すら感じます。与党や野党がどうであれ、シンクタンクやCGIの様な組織が脈々と各国とのパイプを絶やさないようにしていく必要があるはずです。多分そうのはずですが、それらの存在を私が知らないだけでしょう。しかし、実際はそれなりにやってはいるのだとすればそれはそれで問題です。なぜなら、結論として「肝心な時にその組織は機能していない」と、証明されてしまっているからです。少なくとも今のところは。

ビジネス面でもそうですね。一辺倒ではない柔軟かつ多様なパイプの構築は非常に重要なんだなと改めて考えさせられました。一本しかないパイプを外されたら大変です。私なんかはついつい身内だけで固まってしまう習性が強いので(冬の朝に起き抜けられない布団の中のように、それはそれは居心地がいいですからね)、より意識する必要があるのです。今回はクリントンさんに教わりました。


2012/09/26

文章調達法



photo credit: Micah Taylor via photopin cc

文章書くことが最近好きになってきました。もっと上手くなりたいと切に思います。仕事上必須なスキルであるのは勿論ですが、自在に美しい文章を操ってみたいという欲が年を追う毎に深まってきています。ですので、自ずと学びのアンテナもその方面には特に強く反応します。

まずは、日本代表・谷崎潤一郎氏。彼はその著書 文章読本 (中公文庫) にて、文字通り文章上達法を述べている訳ですが、数ある秘訣の中でも「感覚を磨く」という点に僕は赤線を引きました。どうやって感覚を磨くのかと言いますと、①出来るだけ多くのものを、繰り返して読む事 ②実際に自分で作ってみる事。の2点を上げています。ふむふむ。また、私が西洋代表に上げるのはショーペンハウエル。彼もまたいくつかの重要な著書を残していますが、僕は「読書について」という著書にいたく感銘を受けています。その本の中で『「反復は習得の母」。とにかく重要な書物は間を置かずに2度読むべきである』と言っています。

二人ともに共通しているのは、『同じ書物を繰り返し読む』ことの重要さです。それっていわゆる復習ですよね。

同じ本を複数回読むというのは、確かに時間はかかるのですが、しょうもない本を数多く読んで何も残らない無為な時間を過ごすよりは、優れた内容の本を繰り返し読んで自分のものにしていく蓄積の方がしっかりとした基礎がつくられるでしょう。そして、豊潤な土壌に新しい種を植える方が良いに決まっています。

そういった基礎を作る為にも”書く行為"が重要なんだと2人の偉大な人物の思想は繋がります。そういう目的で書く行為を続けるとするならば、文章上達への道を楽しんで歩んでいきたいと思います。

しかし、まぁ”何を書くか”が最も重要なのは言うまでもありません。

文章読本



ショウペンハウエルの「読書について」はこちらがおすすめです。

2012/09/25

爆速レスポンス


photo credit: ario_ via photopin cc

今日、社外の方に送ったメールに対する返信が極めて早いケースが2件程あって、ちょっと感動してしまった。
極めて早い・・・どのくらいかというと、双方ともほんの1分程度だった。だから自分の中でその早さを表現すると「爆速」という言葉がぴっただと思った。(他社流用ですみません)そして、ただ早いだけでなく、こちらからのコメントに対してとても正確な回答が返ってきたのである。

現在では、多くの方が仕事上でメールを含めたウェブ上でのコミュニケーションツールを使っているだろう。必然的に処理する案件の数もうなぎ上りになってくるはずだ。それらを効果的に処理する為には、自分なりに対応する案件の優先順位というものをつけていく必要がある。

僕自身もある程度はそうしている。だから、自分の送ったメールに対して、爆速な対応をしてくれるというのは、僕という人間が、とは言わないまでも、その内容自体が、少なくともその瞬間は相手の中で優先順位が高いものであるのだ。それは気分が悪い訳がない。だからこちらも反応的に素早く返そうと思う。まぁ言ってみれば御礼のような感覚でもあり、そうしなくては申し訳ないという意識でもある。そうやってお互いのコミュニケーション循環が好ましく回りはじめるきっかけとなるわけだ。

毎回毎回は無理かもしれない。しかし、可能な限り早くレスをすることに損はない。
肝に銘じよう。素早く、そして正確なレスポンスは相手にとって喜ばしい事なのだと。

2012/09/23

感性の交流



photo credit: Bastien Vaucher via photo pin cc

いやー、めでたいです。最近僕の周りでは結婚ラッシュ!
先週に引き続き、昨晩も披露宴の2次会に出席してきました。新郎とは10年程前に携帯メールマーケティングをコア事業としていたベンチャーで、一緒に働いていたという間柄です。彼は今ではIT企業の経営者。というわけで、参加者にはネット関係の人々が多かった模様。あ、彼の学生時代のアメフト仲間と思われる方々もいらっしゃった様です。
そうそう、新婦も美しいお方でした。

僕は、そのベンチャーの創業者だった原さんと久しぶりに会って、パーティー中一緒にあれやこれやと立ち話をしていました。彼は現在、大企業の中枢で頑張っていて、陳腐な表現ですが、まさに世界をまたに掛けて飛び回っています。そんな彼との会話で盛り上がったトピックとして、巷で行われている様々なイベントやパーティーでは、どうやら同じ業界の方々で固まる傾向にあるよね、日本て。というものがありました。僕も以前からなんとなくそんな事を感じていて、あー、同じ様な事考えている人がいるんだな、と少し嬉しくなりました。

その後、恵比寿から鎌倉までの”帰宅”という長旅の中で、このトピックについて、あれこれと思いを巡らしました。例えば証券マンと写真家がアートや世界経済について語り合う。ベンチャー経営者と服飾デザイナーが互いの感性にインスピレーションを得る。普段は全く別の職業なんだけども、そういった交流が気軽にできるような場は、意外に少ないのかもしれません。普段自分が手がけている事と全く別世界の人間の話を聞くのはとっても刺激的だと思います。しかし、そういう機会が少ないと嘆いていても始まりません。ちょっとした集まりに顔を出すのでも、人脈をつくりに行くんだ!とギラギラするのではなく、面白い人達と会話をし、刺激を受けて感性を高めに行く、くらいの意識でいることによって、その場は激変するかもしれないなと思ったりしました。そう、要は「感性の交流」なんですよね!こういった交流が増えると、例えばクリエイティブにインスピレーションを受けたセンスのいいビジネスパースンが増え、或はビジネスをしっかり捉えられるクリエイターが増えたりしていいかもねー。というお話。

ま、結婚披露宴の2次会は別ですよ。お祝いなんでそういうコンセプトではないです。でも新郎新婦と話す時間は限られているので、折角なら自分とは違う何かを感じる人に積極的に話しかけてみるも面白そうです。

そうそう、原さんとは何かやってみようか、と企んでいます。


2012/09/19

ショートトリップ(箱根周辺)

遅い夏休みを利用して家族で箱根に一泊。湯の花満載の温泉に浸かってきて、充電バッチリ!カメラのデータを見直してみると、娘ばかりで、記念になるような良いスナップがほとんど無かった・・・あと、一眼レフとiPhoneの併用しようとすると、ついついiPhone主体となってしまう傾向にあり。

箱根彫刻の森美術館(晴れたり雨降ったり)雨の日の撮影は難しい・・・


箱根園ロープウェイ(雨と霧で何も見えず・・・)




芦ノ湖周辺(小涌谷の爆発でできた湖だそうな・・・)




おまけ・・・こんなのは沢山撮ってありますw

2012/09/16

散策の効用



花金(!)だった金曜日の晩、会社のパートナー達とわりと遅くまで飲んでいたのにもかかわらず、昨日は何の苦もなく朝早くに目覚めました。年のせいではないかと、ふとよぎった疑念を振り払い、「すぱっ」と飛びきて近所の長谷寺周辺を散策することにしました。

夜明け前にまとまった雨が降ったらしく、残暑厳しい日々の中で、しっとりと湿った路面に束の間の涼を感じる事ができて、ちょっぴり得した気分になれました。そんな環境で散策できたのだから、とってもリラックスできていますし、ゆったり歩いてい周りを観察する余裕も出てきました。

ほとんど人気のない通りを歩いていると、毎朝通勤で見慣れている町並みでさえまるで別世界(のように視えた)。鎌倉特有の古い家々はより一層趣の深いものに。頼りなく佇むカフェは、渋谷あたりで見かける、人工的で頑丈な建物に入居しているそれらとは違い、その存在に何かの意味があるように感じられて思わずシャッターを押してしまいました。↑↑↑

いつも何気なく視ているものでも、環境や心持ちを変えた視点で捉えてみると、以前とはまるっきり違う世界が見えてくる場合もあるんですね。「視る」とはそういう事なのでしょう。仕事上で解決すべき課題なんかもそうですが、写真を撮る、デッサンをする、文章を書く、という創作活動全てに通じる大事なことなのです。

じっくりと思索もできる散策って、走る事に懸命になってしまうジョギングよりいいかもなぁ。

2012/09/02

旅に出たいわけは?


photo credit: jcoterhals via photo pin cc

みなさん。こんにちは。

最近、ケルアックの『on the road』と、ジョン・クラカワーの「in to the wild(荒野へ)』という旅ものの小説を立て続けに読みました。

 前者は文庫本の分厚さが主張しているように、少々長いです。通勤電車の中での途切れがちな読み方では(ましてやPulseなどにも時間を使っていますからね)、描かれている高揚感をキープするのが少々難しかったです。登場人物が非常に多く、主人公が北米のあちこちをアグレッシブに動き回るスピード感についていくのが精一杯。しかし、次に何が起きるのかわからないという、旅というよりは「移動」による突発性・偶発性がこの小説の魅力なんだろうと思います。そういう風に読みました。

一方後者。むしろ展開はゆっくりと進みます。前者と同様に北米をあちこち動き回るのですが、移動手段は徒歩やヒッチハイクが中心であるし、また、主人公の心の軌跡を丹念に追っていくノンフィクションスタイルがそういった感覚にさせてくれたのかもしれません。映画とは随分と雰囲気の異なった展開(本来は逆ですが)は、既知の予定調和的感覚を良い意味で裏切ってくれて、むしろ僕を楽しませてくれました。こちらは寝る前などにじっくりと読みました。

2冊とも読んでみて改めて感じた事は、ストーリーはともかく、『旅(移動)は、良くも悪くも、大きくても小さくても、常に新たな刺激という副産物がついてくる』ということ。あらたな刺激は何かしらの気づきにつながります。それがインプットというヤツなんでしょう。

ネットや書物から抜け出したリアルで体験的なインプット。実際に触ってみて初めて伝わってくるような五感への刺激。そういった欲求が、旅への衝動とに繋がっているんです。今の僕はそういったインプットが乾きかけた状態なのかもしれません。

だから、ページに印刷された文字を、女々しく指でなぞるだけでは彼らの体験をモノにすることはほぼ不可能です。ましてや満足なんかできっこありません。そう、リアルな旅に出なければ!

因に明日。バックパックを背負って一日だけのプチトリップに出かけてきます。少しは乾きを潤す事ができるのかな。