2014/05/05

全てはフェイクから始まる

デジタル写真のクオリティはもはやレタッチなくしては語れない時代です。

最近ではやり過ぎな感のあるレタッチに批判的な見方も出て来ています。特にファッションや広告の世界ではその傾向が高いようにも感じます。

確かに、モデルの体型や肌の原形を留めない、言うなれば現実には存在しない全く別のものにしてしまうような修正を施して、雑誌のファッションページや広告を作ってしてしまうのは、現代のモラル感でいえばやりすぎと批判されても仕方が無い側面があるかもしれません。そして、一見その批判は正当であるように見えます。

しかし、どこまでが適正で、どこまでがやりすぎなのか明確なルールは存在しませんし、個人的にはそのようなルールは誰かが決めるものでもないと考えています。何故なら、デジタル表現に関する技術の進歩をそもそも止める事はできないですし、進化と共に社会の見方も変わってくるからです。何かを可能にする技術が存在していれば、使わずにはいられないのが人間というものです。

なので、これは制作側のモラルを批判したところであまり意味は無く、私たち受けて側の課題として捉えるべきではないのかと考えています。

例えば、大変失礼な話かもしれませんが、ファッション広告上でレタッチを施して仕上げられたモデルを、流行の服を着せたマネキンみたいなものであると考えてみてはどうでしょうか?マネキンに文句を言う人はいませんよね。

現代の世界では、そのくらいの改変が当たり前のように行われているという現実を直視すべきです。

つまり、ファッション雑誌や広告に出ているモデル、有名人やある意味ハンバーガーの写真など、まずは「ある種のフェイク」である前提で捉えてみるのです。そして、その出来のレベルに対して善し悪しの判断をすればいいのです。

フェイクである前提の広告写真は、現実の表現では不可能であるような、理想の姿を提示してくれていると受け取るのか?それとも現実との乖離を認識することで批判的な見方をするのか。いずれにしてもそれらのギャップに対する受けて側の認識がとても大事になってきます。

全てをフェイクと捉える事から自分なりの真実を見極めることができるかどうか。デジタル表現時代に身につけるべきスキルと言えるのかもしれません。

個人的には、元の素材を活かしたナチュラルな表現技術に好感を持ちますけど、コンセプトによってはフェイクに振り切ったイメージもそれはそれで見応えがある時代であるとは思っています。

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