2012/03/07

ドラマツルギー



photo credit: IronRodArt - Royce Bair (NightScapes on Thursdays) via photopin cc

ドラマツルギー
(Wikipedeiより引用)
人の行動は、時間・場所およびオーディエンスに依存しているとされる。
言い換えれば、ゴッフマンにとって自己とは、自分が誰であるかの感覚である。
そしてそれは演じられている場面の瞬間から現れるドラマチックな効果なので
ある。

・・・・・・

覚えたての言葉を早々に引用して恐縮なのですが、この世の中が「ひとつ
の舞台」であるとする考え方には納得する点も多いです。

「舞台」といって思い出すのは、ちょっと前に催された「劇場型政治」です。
様々な登場人物が出演されていましたよね。
そんな超有名な劇において、観客である私たちは自民党改革派というアクター達
に「投票する」という形で最高の評価を与えました。
しかし、実際には敗れた抵抗勢力側の中でも、良い演技ができた人たちは今でも
舞台に立ち続けられています。それは言ってみればマニアックな観客の支持が
あったからともいえます。
うーん、まさに政治の世界はドラマツルギー!

一方、演技者としての私達はというと、自分達の日常で考えてみると、例えば
日本のビジネスマンであるならば、ひとたび外に出て人に会う時、まず「●●
の内田です」と所属する集団が判別できる「名刺」を渡すことで自分自身が
何物かを理解してもらおうという行為に出ます。
その瞬間に、自我を内側に引込め、本当の自分以外の何者かを演じ始めていると
考えられなくもありません。

そういう意味で、私たちが今生きている社会全体が、いくつかの舞台の集合で
成り立っているという共通認識が前提の社会では、観客としての私達は、演技者
という他社に対して「この人演技しているな」といった批判自体が意味のない
ものになります。
何故なら全ては「演技」で成り立っているのですから。
むしろ、他社への評価のありどころとしては、彼らがどれだけ良い演技をして
くれているか
、という部分に目を向けることになるでしょう。

社会をこの様な視点で見ていくと、演技者にも観客にもなり得る私たちは、互いに
「他者」の存在無くしては「自分自身」が成立しないことになります。
ですから、私たちは他者の期待にお互いに応え合うことで価値を交換したり、
互いの成長に関与したりしているのかもしれません。
結局私たちは、そういった事の為に、日々「演技力」を磨いて研鑚を積んでいる
生き物
なんだと考えることもできて、非常に興味深いですね。

あくまでも一つの視点ではありますが、もう少し理解を深めてみたい
テーマです。

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