読書をしていると、ある一節に甚く共感する場面があります。
自分の置かれているその時の状態や過去に経験したことが、くすぶっていた焚火が小枝なんかの投入がきっかけで再び舞い上がってくる、そんな感覚です。
今、長い時間をかけて読んでいる「ファウスト」にもそんな一節が所々にあります。この小説はともかく長いわけですが、ストーリーの内容というよりも、そういった数々のぐっとくる一節の表現に魅力があるのだと個人的には感じています。
下巻の後半に突入して、やっとそんな感想を持ち始めているのですから、私の読み手としてのレベルが見えてしまうというものですが、まぁそれでもいいかともはや達観して読み進めています。。。
そんなこんなで、最近気になった一節はこれです。
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禍福の吹き回しにもてあそばれて、
禍にも服にも、平静な心で立ち向かうことができず、
よるとさわると啀み合って、てんやわんやの大騒ぎ。
喜びにつけ悲しみにつけ、同じ調子で泣いたり笑ったりさ。
・・・
これって、なんだか何をやっても上手くいかない集団(組織や家族なんかも含めて)の典型例のようです。
内輪で啀み合うということは、人間社会においては昔からありがちなことなのだろうけど、同様にその影響による害も大きいよ、と言われてきていると思います。自分の周りだけよければそれで良しという考えでは結果としてその害が自分に跳ね返ってくるのです。
この一節に続く話もそういった結末です。
そのような状態になってしまうのは、大概において人々の勝手な思い込みがきっかけになっていて、そこに誤解が生じ、果ては嫉妬や被害者意識などが拡散されやすい環境そのものに原因があるのではないかと思います。
そこまでいってしまうと、一旦解体でもしない限りもはや誰にも収拾できなくなってしまいます。
ですから、そういった環境そのものをしっかり整えるということに常に多くの注意を払う必要があるのかなと思います。それにはまず根底に相互の信頼関係のあるなし(強弱)がとても重要だなと。
じゃないと、何をどう懸命に伝えてみたところで、いつまでたってもまるっきり異なる意味でしか伝わらないので、全てが徒労に終わってしまいます。
昔も今も、ある程度の相互信頼の上に立つ基本的なコミュニケーションの重要さを痛感します。
あるいは、何かを成し得ようとする組織であれば、そもそも互いを認め合おうとする基本姿勢のある人々で集まろうよということなのかもしれません。
この作品は、他にもついつい考えてしまう一節が数多く散りばめられています。
繰り返しになりますが、この作品には個人的にはストーリーとしての面白さはなかなか感じることができませんでした。戯曲というあまり慣れない形式にも理由があるのかもしれません。
しかし根気よく読み進めていくうちに、出会う数々の一節についてちょっと立ち止まって考えてみる、そんな読み方もあるんだなと新たな発見があったようでちょっといい感じです。
年齢を重ねた後に古典を読むということは、そういうことなのかもしれません。
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